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13.物部氏の職掌の変遷

前稿に続いて『日本書紀』をもとに物部氏の職掌の変遷を確認します。応神紀、仁徳紀に物部氏は登場せず、続く履中紀から継体紀までを見てみます。5世紀中頃から6世紀前半、古墳時代中期中頃から後期前半の時代になります。

⑧ 第17代履中天皇は即位前、羽田矢代宿禰の娘の黒媛を巡って同母弟の住吉仲皇子と争いになったとき、平群木菟宿禰・物部大前宿禰・漢直祖阿知使主の三人の協力を得て石上振神宮に逃げ込んで難を逃れた。そして即位後は、平群木菟宿禰・蘇賀満智宿禰・物部伊莒弗大連・円大使主が共に国事を執った。また、磐余市磯池での饗宴の際、盃に落ちた桜の花の在り処を物部長真胆連が見つけたことから、宮の名を磐余稚桜宮と定めた。これによって物部長真胆連は稚桜部造と改姓した。

⑨ 第19代允恭天皇が崩御したあと、皇太子の木梨軽皇子は離反した群臣を従えた穴穂皇子に討たれるのを恐れて物部大前宿禰の家に逃亡したものの、そこで自害した。穴穂皇子は第20代安康天皇として即位し、石上穴穂宮で政務を執った。

⑩ 第21代雄略天皇は即位後すぐに平群臣真鳥を大臣に、大伴連室屋・物部連目を大連とした。続いて、采女の童女君に生ませた女子を養育しない天皇に対して物部目大連が諫めたところ、天皇は女子を皇女に、童女君を妃とした。また、歯田根命が采女の山辺小嶋子と通じたことを知った天皇は歯田根命を物部目大連に引き渡して叱責した。

吉備下道前津屋が天皇を侮辱するような行為をしたと聞いた天皇は物部の兵士30人を派遣して前津屋と一族70人を誅殺させた。さらに天皇は伊勢の朝日郎を討つために物部菟代宿禰と物部目連を派遣した。決戦の時、物部菟代宿禰は怖じ気づいて進撃できなかったので物部目連が大刀を持って配下の筑紫聞物部大斧手とともに朝日郎を討伐した。天皇は菟代宿禰の所有する猪使部を取り上げて物部目連に与えた。

別のとき、楼閣を建てていた木工の鬪鶏御田が楼の上で走り回るのを見た伊勢の采女が捧げ物をこぼしてしまった。天皇は御田がその采女を犯したと疑い、処刑しようとして物部に引き渡したが、秦酒公の歌を聞いて罪を免じた。また別のとき、木工の韋那部真根との問答に納得しなかった天皇が真根を陥れ、物部に預けて野原で処刑することにしたが、仲間の工人が嘆き惜しんで詠んだ歌を聞いて赦した。

⑪ 第25代武烈天皇は物部麁鹿火大連の娘の影媛を娶ろうとしたものの、平群真鳥大臣の息子の鮪臣と通じていたので鮪臣を殺害した。悲しんだ影媛は歌を詠んだ。「石上 布留を過ぎて 薦枕 高橋過ぎ 物多に 大宅過ぎ 春日 春日を過ぎ 妻隠る 小佐保を過ぎ 玉笥には 飯さへ盛り 玉盌に 水さへ盛り 泣き沾ち行くも 影媛あはれ」。

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