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7.弥生時代における神仙思想の痕跡

先に見た徐福伝承地と物部分布域の重なる①北部九州一帯、➁瀬戸内海西側の沿岸部、③高知県高知市周辺、④丹後半島を中心にした一帯、⑤伊勢湾岸地域、のそれぞれにおいて、徐福が渡来した弥生時代中期から後期においてこれらの地域で神仙思想を想定しうる遺跡や遺物が見られるのか、を見ておきたいと思います。

まず「①北部九州一帯」を確認しますが、この地域は佐賀県を中心にとくに徐福伝承地が密集しています。その佐賀県に隣接する福岡県を中心とした一帯にある三雲南小路遺跡、吉武高木遺跡、立岩堀田遺跡など、弥生時代中期を中心とする各遺跡において、王墓とみなされる甕棺墓が多数出土しています。また、徐福伝承が色濃く残る佐賀県でも吉野ヶ里遺跡などで同様に多数の甕棺墓が見つかっています。

福岡県糸島市にある方形周溝墓に二基の甕棺が納められた三雲南小路遺跡では、周溝部分から辰砂をすり潰す石杵と水銀朱を入れた鉢が出土しているほか、1号甕棺墓の棺外で朱入小壺が見つかっています。また、福岡市にある吉武高木遺跡では、特定集団墓と呼ばれる甕棺墓群から内部に朱(硫化水銀)が確認された複数の甕棺が見つかっており、この朱は被葬者の顔面など遺体の頭部付近に塗布されたものと考えられています。同じく福岡県の飯塚市にある立岩堀田遺跡でも10号甕棺墓や28号甕棺墓などでは甕棺内に丹(朱と同意か)が塗られており、棺内から複数の前漢鏡や銅矛など豊富な副葬品が納められていました。佐賀県の吉野ヶ里遺跡では、弥生時代中期における歴代の王の墓域とされる北墳丘墓から見つかった14基の甕棺のうち、6 基から水銀朱が検出されています。

弥生時代中期、北部九州ではこれらの遺跡にみられるように甕棺墓が隆盛します。とくに王墓とされる甕棺墓は複式構造の合口部分を粘土などで密閉しており、再生を願って遺体を保存する意識が強く窺えることから、不老不死を目指した神仙思想に基づく墓制である、との見解があります。東晋の葛洪が著した神仙術の書『抱朴子』によると、神仙には「天仙」「地仙」「尸解仙」の3種類あって、天仙と地仙は死なないでそのまま仙人になる上級の仙人で、尸解仙はいちど死んでから再生して仙人なるというものですが、この尸解仙が仙人の原形だとされます。また、不老不死の仙薬の原料である朱(丹)が棺内に塗られていたり、棺外に朱入りの壺を副葬する例も同様に神仙思想によるものと考えられます。ここでは神仙思想を反映した墓制としての甕棺墓や朱の使用を徐福の痕跡のひとつとして考えたいと思います。

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