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16.石上神宮と物部氏

ここまで物部氏の職掌の変遷やヤマト王権内における政治的ポジションの推移を見てきました。弥生時代から古墳時代にかけて墳丘墓や古墳を舞台にした首長霊祭祀を担うことで王権との関係を築き、王権内で執政官として要職を担う中で警察や軍事、外交にまで役割を広げていきました。また、仏教信仰を巡る蘇我氏との争いでは祭祀一族としての一面を強く表出させました。しかしながら、その結果として王権内での力を弱めることになってしまいました。ここではその祭祀一族の側面について石上神宮との関係を確認します。

『日本書紀』垂仁紀によると、垂仁天皇は石上神宮に一千口の剣を納めた五十瓊敷入彦命に神宮の神宝の管理を命じます。そしてその後、五十瓊敷入彦命の後を継いだ妹の大中姫命がその役割を物部十千根大連に委ねることにします。また別伝によると、物部首の始祖である春日臣の市河にまかせたと記されます。いずれにしても垂仁天皇のときに物部氏が石上神宮の神宝の管理を担うことになったわけですが、これらの記述についていくつかの視点で考えてみます。

まず、五十瓊敷入彦命について。五十瓊敷入彦命は父である垂仁天皇から欲しいものを聞かれて「弓矢」と答えたことから弓矢を与えられました。一方、弟の大足彦尊は「皇位」を望んだために父の後を継いで景行天皇として即位しました。これは五十瓊敷入彦命が王権の軍事担当に任命されたことを意味し、それによって垂仁天皇39年に剣一千口を作って献上したということだと思います。別伝では、剣一千口は最初に忍坂邑に納められます。忍坂邑は現在の奈良県桜井市にあり、垂仁天皇の纒向玉城宮や景行天皇の纒向日代宮から近いところです。和泉国の茅渟菟砥川上宮で作られた剣は大和川をさかのぼり、いったん宮に納められた後に石上神宮に奉納されたのでしょう。

剣一千口が石上神宮へ奉納されたのは神宮が王権の武器庫だったからでしょうか。多くの専門家はこの武器庫説を否定していますが、垂仁紀には「是後、命五十瓊敷命、俾主石上神宮之神宝(このあと、五十瓊敷命に命じて石上神宮の神宝を管理させた)」とあるので、剣一千口は武器としてではなく神宝として奉納されたということがわかります。その後、垂仁天皇87年、この神宝管理は五十瓊敷入彦命から大中姫命を経て物部十千根に継承されますが、これが石上神宮と物部氏の関係の始まりとなります。

別伝によると、このとき五十瓊敷入彦命は10の品部すなわち、楯部・倭文部・神弓削部・神矢作部・大穴磯部・泊橿部・玉作部・神刑部・日置部・大刀佩部を賜ったとあります。楯部は楯の製作、神弓削部は弓の製作、神矢作部は矢の製作を職掌とし、いずれも武器の製作という共通点があります。敏達紀、用明紀、皇極紀には物部弓削守屋と記される箇所があり、守屋が弓削氏と関係があったと見られています。弓削氏の拠点は河内国の志紀郡にあり、物部氏の拠点である渋川郡に隣接します。また同様に矢作氏の拠点も矢作神社のある河内国若江郡と考えられており、物部氏、弓削氏、矢作氏には強い関係性があったと思われます。

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