自分の中心にある物語
職業が一語という威力
「作家」と名乗るための方法論は広がっているように見えて、スタンダードは紙で商業出版されたかどうか、ほぼ一択なのではないだろうか。
少なくともリアルの本屋に、他人の資本の力で、自分の文章が収められた本が並ぶというのは、作家にとっての一つのマイルストーンのような気がする。
名刺に書いてあった時に、肩書きは短いほどいいという不文律がある。以前記者の方と名刺交換したとき、肩書きにただ
記者
と書いてあって潔いしかっこいいしで、頼もしく感じたことがあった。
noteのプロフィール欄にしても、「作家」とか「編集者」とかただ一言で表せる職業に従事している方には、心の中で「ひょえぇぇ〜」と叫ぶ。「アートディレクターに敬礼!」ってやつである。
一方で、学者という地位にある方や、スポーツ、ビジネス、職人として一家言持っている方で、作家と名乗らずとも本を出せる人もいらっしゃる。そう言った方々と、本屋という空間では同列に並ぶのだから、物語作家という職業がシビアでも仕方ないのかもしれない。
作家になるための順路
日本とアメリカの出版の違い
私の狭い情報ソースによると、アメリカ(イギリス)と日本とでは、作家(本が商業出版される作家)になる順路が違うと身受ける。アメリカでは、書き上げた原稿は出版社ではなくエージェントに送るらしい。ベッツィ・レーナーは著書で、一人の作家が本を書いて出版し、その後に何が起こるのかまでを詳細に記している。
これによって何が起こるのかというと、作家は作品を書き上げればいつでも世に送り出すことができる反面、作品を送った(持ち込んだ)エージェントに対して気を揉むことになる。自分が産みの苦しみを味わった作品がすぐに読んでもらえる保証はない。半狂乱で電話をしてくることもあるらしい。
アメリカ、イギリスでの編集者という職業がどういうことをしているのか、ちらっとだけれど以下のドラマ・映画でも表現されている。どちらの物語でも「編集者が大物作家に編集を任せてもらえるか面談をする」という場面がある。ある一定の地位を築き上げた作家が、編集者の編集力を評価するのである。日本では「編集〝社”に作品を評価してもらえるか」という視点が多いのとは反対だなと思った。
▼主人公ゴーティマーのお母さんはフリーの編集者として働いている。
▼主人公の奥さんは編集者
日本でスタンダードになっている「新人賞に原稿を集める」という経路は理にかなっているのかもしれない。ただでさえ忙しい編集者が素人の相手に時間を取られる心配が減るからだ。彼らの一年の業務の中で、「この期間は新人の原稿祭り」というイベントがしっかり組み込まれているのだろう。予測だけど。
漫画作品には編集社への「持ち込み」という手段がいまだ残されている。SNSでバズも生み出しやすい。漫画は絵で表されているだけ、「いい悪い」の判断も早い。小説というものは、書かれた文字をイメージに直しながら解釈する必要があるだけ、評価に時間がかかる。極端な例、小説原稿1ページを読み終わる速度で、漫画の1話……10〜15ページを評価することができてしまうかもしれない。
商業出版以外の道
現在では以下の方法で作家として名乗りをあげることができる。それぞれの世界についてまだ深く知らないためにざっくりとした分類になる。
新人賞に応募する
ネット上のメディア、小説投稿サイトに作品をアップする
電子書籍として出版する
自費出版をする
同人活動としてブックフェアで販売する
以前漫画作品を描いていたときに、北海道のコミティアに行ってみたことがある。自分が活動を展開していく上での下調べだったが、イラスト、漫画に小説のみならず、ご当地グルメや変わった着眼点のフィールドワークなど、本当に様々な自主制作本が並べられていて、商業出版の世界と合わせると、もはや語られていないものはないのではと思えるほどのバラエティだった。
自分の居場所はどうするか
自分の活動方針をまだ決めかねている。
まだ自分のエネルギーの配分方法が一定じゃない。書きたいと思う大きなテーマは捉えているが、大きいだけに引き続き勉強が必要だ。そしてそのテーマを物語として成立させるための勉強や、大テーマと掛け合わせることで面白くなると思っている物語ジャンルについての探究も道半ばだ。行程の10%にも至っていない気がしている。まだスタート地点にすら立っていないのかもしれない。
同人活動にまつわる、入稿のための校正作業だとか、設営準備だとかに向ける余裕がない。自分のベースができたらどんな形であれ外に向かう活動を展開していくのだろう。
あまりに山籠りして何もしないわけにいかないので、noteで少しずつ自分のことをわかってもらえるように発信している。
ひとまず試してみたこと
今はとにかく吸収して書く。それは頭で考えただけで出した結論ではない。とりあえずリサーチは試みた。
本格的に物語を作り始めて5ヶ月めの後半は、離職も決まったことだし、執筆に熱量を向けられるようになった。
「辞めた後の身の振り方」について、当時は振り切って「執筆と勉強に集中する」と覚悟していなかったから、「ネット上での発表」「新人賞の応募」「“友達に見てもらう”という作家志望にありがちなバッジの達成」をとりあえずやってみた。
今思い出してみれば、習い事の先生に「小説を書いてる」と打ち明けたら、「あんまり熟成させないでどっかに出してみたら?」という話になり、「なるほど」と素直に受け入れて、「小説家になろう」と「note」に序盤を掲載しはじめてみた。
ついでにネット上で新人賞について調べているうちに、ちょうど締め切りが近いGA文庫大賞を発見したので、大賞の締め切りまでに第二章までを仕上げる、という目標を設定して臨んだ。新人賞の応募要件に「未発表の作品」とあったので、ネットに掲載していたものは下げることにした。
「一度掲載したならもうだめじゃん」という勿れ。作品はまだほとんどの人に見つかっていなかったし、「物語を生み出す」ことにかけて真摯でいる以上、どこかでは蛇のようにさとくある必要があるのだ。
新人賞への提出はほどなく完了した。ちょうどそのタイミングで私の小説を読んでみたいという友達がいたので、友達にも2章までの二稿原稿を送った。
2023年が終わる頃には二稿もすべて完成し、35万文字の物語の全貌がいよいよあきらかになるにつけ、「もうひと頑張りすればもっと良くなる」という声がふたたび頭をもたげてきた。GA賞には2章までしか送っていない。2章で物語は一度山場を迎えるが、未完であることはあきらかだ。
このまま先方に原稿を預けて選考期間に入ってしまい、ハネられ、私の物語にいらん挫折を味わわせるよりは、さらに原稿を磨き上げようと奮い立ち、GA大賞の応募は取り下げることになった。
賞をかしこく利用する
自分の制作が一山越えるたびに、「漫画原作大賞」や「ライトノベル新人賞」にエントリーしては取り下げる、を繰り返してきた。期待と迷いに新人賞を巻き込んできたわけだ。賞の存在によって「この期日までにここまではまとめよう」と緊張感を持ちながら作業を進めることができた。
この文章を読んでくださった方がどのあたりの年代にいるのかはわからないが、社会経験のある自分から言わせてもらうと、賞という存在について、応募者が守るべきなのは、選考側が求めるフォーマットにきちんと整えてあるか、応募方法は決められた期日を守り、指定された手順を踏んでいるか、というところだけな気がする。
コンテンツ自体も大事だけど、「私は取引先として問題なく一つのプロジェクトを進められますよ」という本気を示すには、様式を守ることでしか、今は方法がない。
逆に言えばそれ以外の努力というか策略はあらゆる手を尽くして取り組めば良い。それなので、選考者が用意した応募フォームから一回テキストデータを送って、のち下げる。なんていうのは、相手方にしてみたら事件ですらないだろう。
なぜ処女作をもっと短い物語にしなかったのか
そう言った視点でみると、私が35万文字の物語を書いてしまったということは、大方の新人賞の応募要項からはずれてしまう。言ってる側から規定オーバーである。大概の新人賞は短編〜14万文字程度のボリュームに収めることを求めるからだ。
noteで「作家になるには」「商業出版で本を出すには」などの投稿を読むと、「まずは読者にとって受け入れられやすい、もしくは今売れているテーマで作品を書き、デビューし、そののち書きたいテーマに移行せよ」とおっしゃっている方もいる。ごもっともだと思う。それでうまくいく人も当然たくさんいる。
しかし、東野圭吾が好きな件の習い事の先生は、「東野圭吾に純文学は求めてない」と言う。作家とテーマとは強烈に結びついているし、それで然るべきというか、それこそが作家として成功するということではないだろうか。私だって吉本ばななにはスピリチュアルめいた内省の世界を期待してしまうし、テッド・チャンにはSFと聖書世界(西洋的な精神世界の土台というか)と人間性の絶妙なマッチングをもっと聞かせて欲しいと願う。
私が35万文字書けたのは、自分が見つけたテーマがそれだけ魅力的だったからだ。そして35万文字が、今の私の言いたいことが、とりあえず収まってくれる量だった。
自分のど真ん中にあるのは大長編
同時に自分にとって「物語」と呼べるものは「大長編」にこそあると信じている。
私は、学生時代に徐々に体調を崩していく中で、デュマの「モンテ・クリスト伯」を読破した。伯爵の周到さと文体の絢爛豪華さがいつまでも脳裏にしみついている。最近図書館の文庫の棚でふと見つけたが、7巻まであったことをすっかり忘れていた。レ・ミゼラブルは文庫5巻だけど、『モンテ・クリスト伯』よりもっと長かったような気さえする。
原作を読むきっかけになったのは、アニメ版の『巌窟王』なので、原作もどこかサイバーパンクのイメージが付加されて読みやすくなったのも功を奏した。
私にとっての物語ははてしない物語なのである。
私は青春時代は高等専門学校生で、制服がなく、校舎内の空間も通常の学校のようではなかったので、制服という共通言語がなく、大学受験の存在感も薄く、青春の蹉跌はもっぱら芸術家における才能及び個性のありやなしやによるところが大きかった。
だから日本の小説が日常として背景にすることの大半があまりよく理解できない。だから完全なファンタジーを考えている方がむしろ楽なのかもしれない。
自分の書きたいもので作家の扉が開かれないばっかりに、10年、あるいは何十年も投稿生活を送る人もいるという。その中には不幸な人が一定数いるだろう。しかし一方で、それで幸せな人だっている気がする。
ヘルマン・ヘッセは「詩人になれないなら何者にもなりたくない」と言ったらしいが、この場合は「望む声で歌えないなら作家になれなくていい、何者にもなれなくていい」と言ったようなものか。それは私にどの程度リアリティがあるだろう。まだわからない。
だんだんと振り返りでも書くべきことが少なくなってきた。次回は推敲作業をどのように進めたのかを書きたいと思う。
お読みいただきありがとうございました。
何者でもないアラフォー女性が、35万文字の物語を完成させるためにやった全努力をマガジンにまとめています。少しでも面白いと思っていただけたら、スキ&フォローを頂けますと嬉しいです。
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