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入院して認知症が進み、寝たきりになって亡くなった祖父の話

入院することで二度と家に帰れなくなる命もある

今日09/21は「敬老の日」

思い出すのは祖父のこと。
祖父は戦争でロシアにいたこともある大正生まれ。ロシアでは飢えご大変だったようで「パンが落ちてると思ったら馬のフンだった」と笑っていた。
 
 戦争後は床屋さんになり、生涯床屋さんとして過ごす。私も20歳頃まで祖父にバリカンで坊主にしてもらっていた。髪を刈ってもらって、祖母が作ってくれるラーメンを食べるのが一番の思い出だ。


 そんな祖父にも認知症忍び寄る。徐々に悪化する難聴も認知症に拍車をかけたと思う


 人は聞こえなくなると認知症が進むので、皆様も気をつけて欲しい。もし高齢の家族がいて、難聴なら補聴器を検討して。初めは嫌がるかもしれないけど、慣れるものです


 ある日自転車でふらっといなくなってしまった。捜索願を出して翌日。埼玉県で発見された。ちなみに祖父は千葉県船橋市に住んでいた。
 どんだけ足腰丈夫なんだろう……とも思うし、本人は怖かったんだろうな、と思う。家に帰ろうと思っているのにどんどん知らない景色になるのは相当恐怖だったと思う。
当の本人は帰宅後「わからなくなっちゃった」と苦笑いを浮かべていた

 祖父の認知症の通院は当時看護学生だった私の役目。自転車で20分、一緒に通う。ちょっとふらつく祖父の自転車にドキドキしなから、看護学生なりに安全に配慮していたと思う。精神科の先生の話もメモを持って聞いていた。

 認知症が疑われる御家族を初めて精神科に連れて行くのが困難、というのはよく聞く話。「健康診断してもらおうよ」と病院に連れ出すのが有効なパターンもあります。

 私の就職と引っ越しに伴い、祖父と会うことは少なくなった。
 そしてその頃不幸にも祖母が入院することになった。祖父は身の回りのことはできたが、それは祖母のフォローがあってのこと。親戚が集まって、祖父をどうするか話し合った。

 結果、誰も面倒をみれないので「入院」させるということになった。
 身体的に大きい問題がなくても、やむ終えない事情がある時に入院させることができる。いわゆる「社会的入院」というものだ。
 
 入院して2週間くらいして、私の母から連絡が入った。
「ボケが進んでいるから、顔を見せてあげて欲しい」
 当時まだ新人看護師だった私は正直、体がしんどかった。帰省には3時間以上かかる。それでも祖父のため、「あるモノ」をもって帰省した

 久しぶりに見た祖父は車椅子になっていた。何十キロを自転車で駆け抜けた祖父が。2週間で歩けなくなった。目の活力がなくなっていた。新人看護師なりにこう感じた。


「入院は人を壊す」


 それでも会話をすると徐々に笑顔を見えてきた。そこで私は「あるモノ」を取り出す
 職場のユニフォーム。祖父に見せたかったのだ、私の成長した姿を。
 病棟に断って着替えさせてもらい、祖父の前に立った。
「おお、カッコいいじゃないか」
 そう笑って褒めてくれた
 それが最後に見た祖父の笑顔


 面会の数週間後、祖父は亡くなった。死因は誤嚥性肺炎。経管栄養を投与したあとだったという。
 おかしい
 面会の時は車椅子だったけど、ご飯は自分で食べられていた。なのに一ヶ月もしないうちに寝たきりになり鼻からチューブをいれられ、栄養を入れなければならない状態になるのか。そしてなぜ肺炎になるのか。

 死んでしまうのか。


 当時の私は病院を訴えることも一時考えるくらい、納得がいかなかった

 でも看護師を十数年してきた今ならわかる。入院は本当に心身を病ましてしまうのだ。
『入院して病気は治ったけど、家に帰れない』はよくある話なのだ


 もし皆様の身近に入院中の高齢の方がいるなら、面会をしてあげてください。コロナ禍で不可能なら写真と手紙を送ってあげて下さい。そのことで救われる心があります


最後に
じいちゃんへ

 じいちゃん、一緒にお酒を飲む約束はもう少し先になるよ。その時は久しぶりに髪も刈ってもらおうかな(笑) またね
 

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