私が大事な場所ー生まれた大阪ではなく、京都、金沢、札幌、富山な訳
大変偉大な古賀史健さんの記事にあまりに深く納得してしまった私。
私の場合、ずっと不思議なことがありました。
どうして生まれ育った大阪よりも、大学に入ってから住んだ土地の方が大切に思われるのか?ということ。
私は、二十数年ほど前までは、つまり自分の人生で言うと、札幌から内地に帰ってきたころくらいまでは、大阪の価値観で生きていたような気がします。違和感があっても、仕方がない。自分が大阪から来たのだから、と。でもいつしかこちらの文化にも慣れ、人間関係も構築してみて、どこに行っても同じだなあ・・・、と思うに至り、今いる場所に馴染んでしまいました。
でも、思い出の中では、親元から通っていたとはいえ、大学のあった京都、それから大阪とはいえ、生徒が全国から来ていた初任の学校、それから金沢(こちらは住んでいた期間自体はとっても短い。)。金沢はたった三か月しかいなかったのだけれど、初めての集合住宅での暮らしだったし、新しい住まいでのあれこれ、それから体調を崩し、自分の身体がちゃんと動かない焦りを経験し、それがお腹に娘がいることがわかり、その日の夜には、金沢の市民大学の抽選で当たった講座に出席していたという濃密さでした。
その日、もしも夫が自分より早く帰って来た時のためにお夕飯は作っておきました。
新しい生活への戸惑いと妊娠とがあり、そして初めての転勤を経験し、あれはあれで思い出深かったのです。
それまでの勉強や仕事とは違うけれど、慣れない土地にやって来て、精一杯頑張っていたという点では期間は短いけれど、とんでもなく思い出のある場所です。今ではもっぱらお買い物か美術館、何ならスーツを作りに行ったり、まあセミナー関連で行くくらいの場所になりました。(笑)
おかしなもので、大阪に住んでいた頃、北陸では街中だったのに、あまりに小さく感じられ、ある意味おっとり感じられたのに、今では、たまに行くと、随分と都会に出た気分にさせられるから不思議なものです。
それから富山での生活。いろんな意味で新しいことばかりでした。親戚の一人でも誰かがいてくれれば違ったのかもしれないのですが、本当に初めての土地でした。でも、とにかく自分では精一杯でした。
知らないからこそ、みんなの方が正しいということになる面があります。
ここは○○だから・・・。
と言われれば自分の気持ちも意見も引っ込めなければならなくなりました。
夫の仕事も、決して自分には合うものではなかったとも思うし、夫の世話も、何を言われても初めてのことでした。
父や叔父は、全然横暴ではなかったから、一から男性というものは・・・、と学ぶ機会になりました。(笑)
夫は、その自分のいる場所で、ものの名を言えば、そのものが飛んでくる、とおもっているようなところがありました。すべてがカルチャーショック。
お父さんと○○さんって、○○さんの方が倍は手が掛かるよね!
と母に聞くと、
あんた、何言うてるの?倍できくかいな・・・。
と言われても、あまりわかっていませんでしたが、ある時、帰省時に、父が、何かをこぼして、
おーい!雑巾持ってきてー!
と言ったので、持って行った先で、私の手は宙に浮きました。
父が雑巾を取って、自分で拭いてしまったからです。
あれ?
と思って、
私の仕事、なくなった・・・。
と母に言ってしまい、
これか、私の仕事量を表しているのは・・・。
と思いました。
ホーム・パーティにお呼ばれした時も、そちらの私と同級生の奥様は、
ねえ、○○ちゃーん、ケチャップ買って来てくれる?あった方がいいでしょ?
と私たちが来てからでも、旦那様におっしゃっています。
えええ?
そんなことお願いできないし、というより、ホーム・パーティが完璧に用意されていなければ、怒られるに決まっています。
私の仕事は際限なくありました。
おかげで家事のスキルは上がったと思います。
札幌転勤時には、あれこれありましたが、社宅内でのことはともあれ、時に、社宅管轄の会社のおじさまが、個人的に(つまりは、私が月当番でもなくその立場にないとき。)、電話を掛けて来られて、
あれ、どうなってるの?
などとお訊ねになることがありました。
私が思うにはですよ・・・?
などと説明すると、
ああ、○○とは聞いているから。そこはよろしく・・・。
となるのでした。
だからあ、私は違うって!
と思いますが、常々あれこれ言っている奥様達は何もなさらず(裏であれこれはたくさんあった。ウソもたくさん。)、結局私が動く羽目になり・・・、ということで、なんとも割の合わない思いをしたものでした。
娘が幼稚園に入る直前に札幌に渡り、そして小学校入学して間もなく内地に帰ってきました。
娘の幼稚園時代は、ちょうど札幌であれこれ工夫しながら呑み込めないものを呑まされる連続で生活していましたから、卒園式は、その時代が走馬灯のように脳裏に流れ、涙涙でした。
それから帰ってきました。
札幌はあれこれあってもある意味土地柄もあるのか自由でした。
帰って来て、独特の文化もありましたし、何より夫の実家がありました。
初めて夫が単身赴任した七月。
その後の八月に、それまで一冊読むのにどれほど掛かる?と思って来たのに、夫がいないだけで、十冊読めたという話が良く表しています。
私はその単身赴任が決まったときに、とんでもなく寂しい思いをしました。
周りが呆れるくらい。
おそらくは、自分の仕事が結構なくなると思っていたのだと思います。
それから私は、自治会や子どもたちのあれこれ、もちろんそれまでからあった仕事の方に力を注ぐことになりました。
自治会の副会長で、レクリエーション委員だったとき、近くの桜の名所でバーベキューをしました。あらかた私が用意をし、お肉を買い出しに行ってもらったり、野菜を切ってもらったりするのだけをほかの奥様方にしていただきました。
ぜーんぶ、こちらで準備したのですが、私が走り回っている間に、夫が終わりの挨拶をしていて、正直びっくりしました。
ああ、そういうことなんだな、と思いました。
私が一生懸命にやったことの最後だけいただきー!
その次のバーベキューについては、
何も準備せんでも、朝みんなが集まって、それからみんなで買い出しに行けば、できるもんやて・・・。
ということで、ある日出掛けた夫は、曇り空だからやめた・・・。
と言って帰ってきました。
今、NHKの朝ドラでやっている『虎に翼』の中で、女性たちが、あれこれ疑問に思っていることを一通りやってきたような気がするのはこのあたりでしょうか?(笑)
一方女性は結構真剣に呑み込んだり、あるいはあきらめたりしながら一生懸命になんとか適用しようとしているものです。
だって大抵は子供がいて、母親にとっては子どもが命だったりしますから。
ただ、一つ言える。
どの土地でも、雑に生きたことはなかったのです。
すべてがお仕着せで、両親や祖父母のもとにいて、その価値観の中で過ごしていた頃とは違って、
お前が選んだんだ・・・。
という言葉のもとに、何があっても自分で何とかしなければなりませんでした。
子どもをもってからは、子どもたちの人生について責任がありますから、自分がどうだとかいうことはどこかにぶっ飛びました。
社宅では、同じ土地出身の家ともう一軒のお家が、結構大変な家とされていましたが、それでも、まだ家の方には愛情があると言われていました。
大変であろうと何であろうと、命でも取られない限りは、一生懸命に適応しようとするものです。
だから、ひとときたりとも雑に扱ったことなどないのです。
一瞬一瞬心を込めて生きてきたと思います。
自分で構築してきた生活だからこそ、大切なのだと思います。
でも、先日の旅行で、私がハンドルを握って、大阪の広ーい道路を右行き左行き運転で来たのは嬉しかったし、何より阪神高速をぶっ放したのは楽しかったのです。ふふふ。
まあね。DNA的にはやっぱり浪速の女なのかもしれません。
そのときは、血が騒いだ・・・、というか、喜んで運転してしまいました。
まるで若い頃、スーツ着てハイヒールを履いて、梅田の阪急までの人の波を、たったとかき分けて横切り、デパートに入って行っていたときのようで・・・。(笑)
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