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私、飽き性だと思っていました!ーまたまた言われてしまった感のあるしいたけさん。

私はちょうど十年前に開業しました。
ちょうど五年目が終わった頃、その年の大学受験生のことでぐったり来たのもあり、この仕事に情熱がもてないなあ・・・、と思っていたのでした。
そこで、たまたまプライベートでちょっと節目になることもあり、その真っただ中にずっとビジネス的に慕っていたコンサルタントさんが金沢に来られるということで、いったいそれが何をするところかもわからず、言ってみれば気晴らし的なエンタメとして、ホテルに一泊して気分転換ということもあり、参加したのでした。

私にはまだ心の中である試験に再挑戦したい気持ちがありました。
でも、仕事をある程度整理しなければ、それも無理。
だからご相談に行ったのでした。

先生に、

この仕事、ある程度やってきて飽きているところがあるんです。

と言ったら、

一つのことに飽きる人は、ほかのことをやっても飽きますよ・・・。

とのことで、

あっそっかなー!?

と思い、

では帰ったら本全部捨てます。

と言ってしまったのでした。

自分がやる気を持ちさえすれば、仕事などどうとでもなることくらいは経験的に知っていました。

とはいえ、今日出会ったしいたけ先生に記事には、私が思っていることをばっちり分析されてしまったようなところがありました。

やはり、4~5年ですか・・・。
私がこの仕事、とはいえ、開業したのですから、それなりにあれこれあったはずなのですが、それでも4~5年である程度形ができてきていました。
でも、なんか疲れていたのです。
慣れてきたし、ある程度仕事のやり方はわかっていたし、ご丁寧にも税務調査にも入られて、 ビジネス的にもなんとなくやっていて目を付けられる程度にはやってるんだなあ・・・、と自己責任論もあいまって、変な完成を見てしまったような気になったのでした。

スタッフにも結構来ていただいていました。
でも、情熱がなくなってしまって、本当に困っていたのでした。
そういうとき、やる気になるのは、やはり例の試験でした。
その試験についてもコンサルタントさんに質問したら、

目の前の生徒放っておいてどうするんですか?
人のために役立ちたいとか言いながら矛盾してませんか?

と言われて、ぐうの音も出なくなっていました。

そうか、無責任か?

とはいえ、その後の数年かけて考えて、あきらめもし、あれこれ考えもしたのですが、やりたいことのその先にはやっぱりその試験がありました。
数か月前に再受験の決意をしました。

そしたら、仕事そのものがやっぱり楽しくなってきたのです。
だから、生徒たちの面談をすることにし、夏期講習などは受講してもどっちでもいいから、とにかく夏の勉強の仕方を、志望校に向けて何とかしておきたいと思えたのでした。

そしたら、なんとなく毎日面談をしているような有様になり、おまけに夏期講習どうします?というようなのんびりした話をしていたら、みんなやっぱり受講することになり、でも、どこかで乗り切れるだろうし、やってやろう!と思っている自分がいます。
家事も結構頑張っていて、子どもたちがまだそんなに大きくなかった頃に、夫の世話と子どもたちの世話と仕事や自治会など、もういっぱいいっぱいの仕事を、切り分けずに同時進行でやっていた要領を思い出し、それがまた楽しくなってきたのでした。

仕事は最重要な仕事。
責任があります。
でも、家庭生活も大事です。
開業してからはかなりわがままにできる状態にもあり、結構、

ザ・仕事!


という具合に、仕事に集中することができました。
稲盛和夫さんがJAL再建の折に、東京のホテルに泊まっておにぎりを食べていたという話を自分に都合よく解釈し、外でいただこうが、コンビニで調達しようが、ちょっと、いえかなり恥ずかしい思いはありましたが、仕事をしているという充実感と誇りから、別にそうそう気になることとも思わずやっていました。

その頂点がどうも4~5年の間にあったようです。
どこか家庭的なことに回帰しなければならないというような思いもありました。

春頃だったかなあ?
近くの射水神社で、たまたまおみくじを引きました。

周りに嵐が吹き荒れていても、家の中だけは暖かな光。

というような内容でした。

旅行も転居も商売もいいのです。
恋愛も結婚も出産もいいのです。
終わったことまでいいのに、なんと学問だけ、

決意が甘い!


と書かれていたのでした。

決意?学問?いったい何の?
今さら数学?まさか英語や国語ではないわいな。だったらまさか物理って?

と思っていたのですが、最近になって、その分野の話になって、自分があれこれ言いだし、そのうちに目が輝いているのに気付いたのです。
正直、その分野以外の話って、生ぬるいのです。
文学も哲学も。難解な哲学書や精神分析の本なども最近は訴えてこなくなっていました。
フランクルのある作品を読んで、

まだまだ深い世界がある・・・。

とはいえ、私は医師ではありませんし、学生時代、かなりかじったとはいえ、心理学が専門ではありません。

神様はいったいなにをおっしゃっているのかしらん?

と疑問に思っていました。

ある日突然そのことを思い出し、

ああ、これかー!


と思いついたのでした。
幸いにも、ゴールデン・ウィークに家を大々的に片づけていましたが、本たちは捨てられることはなく、ちょっと空間があったので、いえ随分な空間ですが、私の寝室の押入れ(これを全部クローゼットにしたろ・・・、と目論んで失敗した。)に全部積んでおいてあります。

そうそう、それそれ。捨てられないには理由があったのでした。
そのことを思ってから、私にはまた言葉と、言葉を根拠にした強さが戻ってきたようでした。

先日から生徒の指導をしていて、どう見ても無理な進路指導の中で、やっと生徒を普通にまっとうな道へと導くことができました。
彼女が、今思っていることを実行しようとしたら、どれほどの人が巻き込まれ、迷惑をかけられるかと思うと、彼女がこれ以上、それこそ人生の中で誰かに借りを作っていくのは良くないだろうと思ったのでした。貸しを作るにしては私にとっても大きすぎる仕事でした。

先日、NHKの朝ドラの「虎に翼」の中で主人公である寅子が、裁判所の書記官である部下に、

ああいう人たちに借りを作ってほしくないの。私がいなくなった後でも、あなたが言いたいことができ、したいことができるように処分することに決めました。

この感覚は、私も同じようにもっているようなものでした。

誰かに借りを作って生きていくのは安易です。
でも、安易な方法は後でとんでもないツケになって返ってきます。
そして知らず知らず、自分の生き方を制限することになるのです。

例えば、今目の前にそうなろうとする方がいらっしゃるので思い切り考える機会があったのだけれど、あるご夫婦がいらして、例えば親族の問題で別れなければいけなくなったとします。
大抵は男性の方が経済力がある。そのときに、なかなか認められないらしいけれど、当然に夫側に責任があるとして、もちろん0対100というのはどの世界にもなかなか認められるものではないにせよ、誰が考えても夫側に大きく責任があるとします。この際子供のことは考えないとして、あるいは考える必要のないものとします。
そのときに、かつてよくあったらしいのは、慰謝料も、それからの妻側の生活費も出そうとしないという件です。
それまで妻側は、夫側に対して、例えばその一族に対して、あるいは地域社会について、あるいは夫の職場などに対して、一定の功績があったとします。子どもを育てるというのも、大きな実績です。残してくるとなればなお一層。
でも、なかなか古い考え方で、まあ言ってみれば行いすました家で、立派な家なのか、そう勝手に思っているのか、妻側に過失までをも求めて、何も一切出そうとしない家が多いということを聞いたことがあります。
つまりは女側が泣き寝入りということか?と驚いたのです。
手に職がある奥様ならまだいいのです。
しかしずっと専業主婦などしていたら、何もできないかもしれない、いや、専業主婦のスキルは生かすことができる、などとビジネス的視点をもち出してしまうのが私の悪い癖です。
なんだったら、そういう女性を集めてとんでもない職業集団を作るというのもありかもしれない。それはそれで面白そうです。(笑)
いや、笑っている場合ではない。真面目な話。

しかし、まあ、ちゃんと頑張ってきた人にはいいこともあろう、という現実から逃げたことを言っておいて、さて、夫側に戻りましょう。
その後、まあ、妻側がどこか知らないところにでも行ってくれたらそうはならない?いや、風の噂というものも強いからどうなるかはわかりません。第一SNSもあり、どこに住んでいるかなどたいして意味を持たないくらい日本中が狭くなった昨今、どこに住んでいるとかではなく、夫はどこに行っても生きづらくなるだろうことは容易に想像できます。
例えば、夫よりも妻の人望が厚い場合。
だいたい男性より女性の方が、うまく世の中を立ち回っていく能力は高いものです。
だからこそ夫婦は互いの力を補完しながらよりパワーアップしていけるというもので。
妻の力で支えられて仕事していた夫は、その大変な支えを失うことになるし、別れた際に、自分の舌仕打ちのひどさを誰より自覚していたとすると、周りの目を気にしなければならなくなるし、そのことをどこか庇われながら仕事をしていたとしたら、いつも周りの目と戦っていかなければならなくなることでしょう。

きっちり落とし前?はつけておくべきだと思います。
自分が悪いことをしておいて、謝りもせず、何なら誰かのせいにして、おそらくはそういう話を作り上げて吹聴しても、自分の心の中にある現実と真実と、いくら悪人でも少しばかりの罪悪感があれば、その後の人生はいろいろなことに縛られなくてはならないのです。

かつて、中学校の英語の先生が、電車に乗ったときの、無銭乗車について、つまりはキセルについて話しておられたことが印象に残っています。

京都の素敵な?大学に通っておられた先生は、結構、周りに比して豊かではなかったということでした。その辺のことも聞かせてもらいました。現実について嘘偽りのないことを言ってくださったものでした。これも大阪人はやっぱり何かに正直なのかな?包み隠していながら本当のことをもっと露骨に言うよりいいものです。
あるとき京都から地元大阪に帰ってきたときに、キセル乗車をしていたのがバレて、改札で駅員さんに呼び止められて、理屈で返したらしいのです。確か説得に相手が負けたのだったのではないかな?いや違ったかな?

そのときに思ったのだそうです。
わずか数十円で、自分の値打ちを下げることはないなと。
その数十円をその時は得した気分になったとしても、そのことで値打ちが下がる。そう、誰かに借りを作っているという気持ちって、どこかに残っているはずです。

支払いなどは、ケチるより、ちょっと多めに出しておくくらいがいい。
これは私の経験談です。

私は一応正直に、支払わなければならないものは支払っておきます。もしうやむやになったことがあったとしたら、もうそれは支払っておきます。あるいはいただくべきものをもしかしたら?と思っても、うやむやなら、もうそのことは考えないようにします。とはいえ金額の限度にもよりますが。
なぜか?借りを作らないようにするため。
もちろん、相手に対しての借りもあるが、それよりもっと高次元の話なのです。
だいたいにおいて得したなどと思うことは、それも相手に対して損をさせて自分が得をしたなどと思うことは後で大きくなってツケが返ってくるものです。

私の場合、たとえ損したと思ったとしても、後で大きく返ってくることが多いのです。
というのも、私のために一生懸命になってくださる方が多くて、誰かの尽力によって、いいことになることが多いのです。
先日もありました。

その反対に、それはいただくべきものではありません・・・、と思いながら、その人の思いに乗って、

違うんだけどなあ・・・。

と思っていただいてしまった、かつて1万2千円ほどのお金がありましたが、その人に、思わぬ先から後からの請求があったそうで、

ショックです・・・。

との報告に、

やっぱりそうだったでしょ?

と言って、私が返金したことがありました。
私の場合、そういうお金はちゃんと返すことになっているものです。
こういう仕事をしているとそういうことが出てくるのです。
でも、払ったもの勝ちです。
そんなところで、わが子の受講料をヘつるようなことをする人に良いことなどないのです。

先日も、これは私が甘かったと思うことがありました。性善説派の私であっても、いくら何でもこのやり方だと誰でもそうするかもしれないなということがあり、それは重要書類をどうするという面があり、大きな勉強となったものでした。

とりあえず、借りは作らず、ちゃんと貸しを作っておくほうが良いのです。
だって、どこに行っても堂々と生きていけるだろうから。
どこかであの時ズルいことをしたなあと思いながら生きていく人と、まあわかる範囲で、そうでない人とでは生きていくときの自分の気持ちのさわやかさが違います。
第一そういうところに頭を使っていたとしたら、頭がクリアにならず、ますます勉強が追い付かないことになってしまうでしょう。

ズレた!大いにズレた!


話がとんでもなくズレてしまいました。

その試験のために、ちょっとでも近づいた仕事をしたくて、相談室も開いたのでした。
そうそう、そのことがしたかったのです。
でも一方大学受験指導ほど面白いものはないのです。
だから、試験を夢見て、少しずつでも勉強して、何も合格だけを望むのではなくていいから、やはり勉強していきたいのです。

これが神様からの、

決意が甘い!


ということになるのでしょう。
やりたいことが明確にあって、ある意味その手段として始めた開業でした。
借りた教室の二階は、本棚を置いて自分の書斎にする予定だったのです。
今では立派に自習室となっているのですが。(笑)

とりあえずもともとの決意をちゃんと忘れずにやっていこうと思います。
ちょっとしいたけさんの記事の内容とは外れたけれど、私にとっては全く外れていないのです。
ちゃんと整理した挙句のことです。

夏期講習が終わったら、また試験を頭に置きながら仕事をするのでしょう。

それが名越康文先生のおっしゃった、金メダルを取った選手の、次の目標に近いものだから。


もしもサポートしていただけましたら、そのお金は文章を書いて人の役に立つための経験に使います。よろしくお願いいたします。この文章はサポートについて何も知らなかった私に、知らないうちにサポートしてくださった方のおかげで書いています。