生き急いでいると言われ続けて・・・。
結婚式での新婦側の主賓のスピーチは、新卒で勤めた学校で最後の一年本当にお世話になった、それも新郎の地元出身の先生にしていただいた。
なんでもできる人なので、今までのように走ってばかりではなくて、これからは時折は立ち止まって考えるということも大事だと思います。
などとおよそ花嫁には向かないようなスピーチだった。
一緒に出張に行った折など、
私は先生のように何でも器用にはできん・・・。
と言われて、唖然としたことがあった。
私のスタンダードになっているのは高校時代の部活の先輩や同級生たち。
成績もいいし、すべてにおいてなんでもできる人たちだった。
だから、自分のことを何でもできるなどと思ったことはなかった。
第一、その先生は、東京の大学から大学院は私の母校の大学院をお出になって、論文も出しておられる学者でもいらっしゃった。その年には学術的なご著書も出された。末端ながら校正の役にも当たらせていただいた。
最近、当教室のことを思って、確かに走り過ぎだったかもしれないと思い始めた。
減速する気があるわけではないけれど、とにかく何かあるとすぐに対応してしまう。
それは最初に勤めた学校で全寮制だったために私も住んでいた寮の寮長先生がおっしゃっていた言葉のせいかもしれない。
生活指導的な側面として、
本当に最初の頃、気付いたときに芽を摘んでおけば簡単なことなのに、見過ごしてしまったら大ごとになるから。
私は大学時代までは、できれば後回しにして、その時に決着をつけるということが苦手だった。
それはむしろ男性とのお付き合いにおいてそういうところがあった。
関係性を決めずにその状態を維持したい・・・。
今思えばむしろそれは男性によくあるタイプの考え方かもしれない。
私たちの場合は、私が乗り気でなくて、何回プロポーズさせてるの?と言われるくらいに結婚、結婚と言われていた。
今思えば大学時代、もう少しいろんな人とお付き合いするべきだった。
そして教員になって、そういうことはダメだとお節介なおばさまからあれこれ言われた。だからその次の日に別れた。
でもそれも続かないようになっていたけど。
たぶん今若いころであっても、まあ、今なら結婚を経験した後だから踏み込めるということも思うけど当時を今に持ってきたら、相手がよほど乗り気だったから進めたけど、仕事をそのまま持った状態で、もう少し、もう少し、と伸ばすなり、やめておくなりするか、ぐずぐずとその状態を続けていただろう。まあ許されなかったとは思うけど。
子どもたちが生まれて、母親が思わず向いていたらしいのが嬉しい誤算だったけど。
結婚して一番困ったのは時間の使い方だった。
一瞬をつかんで仕事を入れるような仕事の仕方をしていたし、時はバブル期。遊ぶにしても時間を有効に使ってなんぼ。スケジュールを埋めることが最大使命で人気の証、のような時代だった。
大学時代だって手帳が黒々埋まっている人が充実しているということとしていたような時代の延長で、仕事していた。
それが嫁に来て、地方での家庭生活。娘ができて、すぐにつわりになって身動きできない自分に呆れた。数か月前にはぴょんぴょん飛び回っていたのに。
なんでか、この2学期の中間考査の試験対策に生徒さんたちの指導をしてきて、
ああ、私ってちょっと走りすぎかもしれないなあ・・・。
とどこかで感じたのである。
というのも仕事だけではない。
そもそも自分ができるとは思ったことがないので、いや、周りの評価を聞いて、頭ではそういうことを言っている節はある。実績とかいう表現も使うけど、実感はないし、誰かが言った言葉である。それをそのまま使って、ある人に嫌みを言われたこともある。
できると思っていないので、努力する。
そして何かの本番也試験なりがやってくる。
そしたら、できていたりするのである。
たとえばお葬式。
私は都会から来た、おそらくは家事能力のない勉強を少しばかりした嫁だろうというレッテルを貼られていたらしい。
親戚の誰だかわからない少しばかり年上の人には、
お義母さんの言うことよく聞いて、がんばらないと。
と言われた。
そんな私が何かできるとそれはそれで周りは困ったらしい。
非難ができない。
そして、なかなか地方に馴染めないだろうという憶測を持たれていたのよりはすぐに馴染んでいた。
それに会社の奥様方からは浮いた存在にされていたけど、社宅管轄をする司会者の部門からは、
あれ、どうなってるの?
と判断を求める電話が掛かってきたりした。
ほかの奥様方よりできないからと思って頑張っていたことも多かったっけ。
それは会社に馴染めていなかったと言っていいのかそうでないのか?
変な貢献の仕方をしていたような気がして、今でもあの時のお給料払ってください、と言いたい気分。
それと同じように、誰かとの人間関係はどうかはわからないけど、何かができるようにはなっていた。
ある日、お義父さんの入院先にお見舞いに行ったら、本家のおじさんとお兄さんが来られていて、病院の売店でササッと用意してこちら流のおもてなしをしたら、偉く喜ばれて、それからは、お兄さんご夫婦とスーパーであっても受け入れられている感のある挨拶をしてくださるようになった。
それはそうである。
職場におられたお茶の先生に、こちらでのおもてなしの方法を押していただいていたから、それはマスターしていた。
だいたい私が大阪から来たと思って、周りは心性津に何でも教えてくださったから。
それでも、家でホームパーティを何度もしていても、お義母さんからは、
私もたくさんお父さんの関係の人呼んでもてなしたけど、あんたもそのうちできるようになるてー。
と言われて唖然としていた。
この言葉でできないようにするって、何?
不意にやって来たお義父さんのお葬式のときに、それまで培ってきたことが無駄ではなかったと思った。
言われてきたことをまともに受けていた私には、終わってからの世の中は別世界に思えた。
私はいろんなことをできないと思っていたから、周りの人みんなに聞いて教わって来ていた。できないと思っていたから。それは貪欲だった。
だから、今、結構県内のことを知っている。
地元出身の人が知らないことを知っている。
でも、貪欲であったり、つい先を考えてしまうところのあまり、もしかしたらいつも化も走り続けてきたのかもしれないなあ・・・、と反省している。
今だってそうである。
怠けていると思っている。
でも、結構一日働いている。
でも、周りから、ちょっとでも私が余裕があるような表現をされると私はまだ怠けているのだな、と思ってしまう。
たぶん、高校時代に出会った人たちが凄すぎたんだと思う。
こちらで何かの折に、○○高校の人いました?
と大学で思い出を聞くたびに、
ああ、いますよー。優秀ですよね!
という言葉が必ず帰ってくる。
同じ大学に通っているのだから、その中で優秀も何もありはしないだろうに、誰か思い当たる人がいると必ずそう返ってくる。
だからか。
私がいつまでもできないという焦燥感を抱いているのは。
先日生物を教えていた。
昔より難しくなっているのか、受験科目だったのにさぼっていたのか結構ヘビーだった。
こんなことを軽くやっていたの人たちだったもんな。
と思ってわが身の怠惰を戒めた。
今その方面で活躍している私の大っ嫌いだった人たちもこういう分野軽くやってるはずである。
私は違う方面からこころの中で毛嫌いするのも批判するのもやめた。
あああ、もっとゆっくりしてみよう。
仕事は逃げない。
家事も逃げない。
休む時を決めよう。
という反省をして、でもどうせ数日の心がけに決まっているけども。
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