【ふるさとを語る】大東亜戦争最後の戦いを語る【終戦記念特別編】
🟥はじめに
どうも、ひまじん33ごう🐹です。
現在、筆者は夏休み中です。10日程まとまって休みを取れるため、文字通りの「骨休め」を満喫中でございます。
…そんなリフレッシュをしていて、頭の中がクリアになっている時期に思うのは、ご先祖さまの供養や戦争の事。もちろん、戦争は大東亜戦争の事を指します。
「えっ😲?"太平洋戦争"じゃないの🤔?」
"太平洋戦争"とは、敗戦後アメリカのGHQが決めた呼称。日本側の呼称は元々大東亜戦争であり、またその方が主戦場(東南アジア)を明確に理解しやすいために、筆者は大東亜戦争と呼んでおり、何か個人的な政治信条に基づいてそう呼んでいるわけではない事をご了承ください。
先の大東亜戦争において、北海道は沖縄や硫黄島、また本州以南の主要都市ほどの壊滅的な被害は蒙りませんでしたが、空襲や戦闘機の機銃掃射によって少なくない損害が発生しました。
筆者の地元十勝においても、爆弾が投下されたり、機銃掃射された事を父方の祖父から聞きました。
しかし、北海道も、旧日本軍の兵隊さん達が"かの地"で奮闘しなければ…。主戦場になり、ソ連の領土になっていた可能性があったのです。
その"かの地"とは、千島列島の最北端にある、カムチャツカ半島の南端に近い小島の占守島。
今回は『終戦記念特別編』と題しまして、占守島の戦いのお話をして参ります。
かなりの長文となってしまいましたが、よろしければ、御付き合いください🙇♀️。
🟥占守島はどんな島?
🔴占守島は何処にある?
かつては、1875年(明治8年)5月7日に樺太・千島交換条約で樺太と交換されて以降は日本領でした。
大東亜戦争最末期にソ連が日ソ中立条約を破り攻め込んで来たのち、ロシアが実効支配しております。
現在は上陸にはロシア国境軍の許可が必要で、ペトロパブロフスク・カムチャツキーからヘリコプターで2時間かかります。
🔴地理
島の北側の一部は砂浜。それ以外はほとんどが岩礁。
島内部は緩やかな丘陵が続き、沼地や草原で覆われています。かつて草原部には日本人の住居があったそうですが、今は何も残っておりません。
島を流れる別飛川には、カラフトマスが遡上する事があります。
ソ連軍の上陸地点にもなった武田浜のそばの高台には、四嶺山があり、戦時中には旧日本軍の守備隊の本部が置かれていました。
現在では戦車・砲台・戦闘機・トーチカ・飛行機の格納庫などの残骸や廃墟が残っております。小規模ながら、ロシア軍の軍事施設が設置されています。
気候は夏季でも冷涼で、平均摂氏15度程。海に囲まれているからか濃霧日が多いようです。冬季はマイナス15度の極寒の上猛吹雪に襲われる事が多く、厳しい環境である事が伺えます。
🔴名の由来
アイヌ語の「シュム・ウシ(南西・<そこに>ある→南西に存在する、或いは南西に入る)」からとする説
この島の語源を「シー・モシリ(本島)」とし新知島の語源を「シュム・シリ(西島)」とする説
占守島を「シュム・シュ(油・鍋)」とし新知島を「シュム・ウシ(南西にある、入る)」とする説
北海道の地名同様、占守と言う名前はアイヌ語から来ている模様。しかし、アイヌ語には文字がない関係上なのか、明確な一次資料が残っておりません。
以前筆者は帯広市の名の由来の記事を投稿しましたが、それと同様に様々な説があるようです。
🟥占守島の歴史
占守島には先史時代より、少し離れた幌筵島と共に人が居住しておりました。
こちらでお話する歴史とは、江戸時代以降から大東亜戦争終結までの、内地人が記録に残しているものを言います。
🔴江戸時代
江戸時代の頃には既に認知されていたようで、1700年(元禄13年)に元禄国絵図のために松前藩が幕府に呈上した松前島郷帳に「しいもし」と記録されているようです。
また、ロシアにおいても、1711年及び13年に二人のロシア人が上陸し、現地のアイヌ人に「毛皮税」を取り立てた記録が残っています。
1715年(正徳5年)、松前藩主は幕府に対し「北海道本島、樺太、千島列島、勘察加」は松前藩領と報告します。
1855年(安政元年)、日露和親条約により、日本とロシアの間で、ロシアの領土である事が一旦確定されます。
🔴明治~
1875年(明治8年)5月7日、樺太・千島交換条約で樺太と交換され、日本領となります。
同年10月、日露両国間で讓渡式が行われます。目前のカムチャツカ半島のロパートカ岬はロシア領(後にソ連領)。国境警備の最前線となり、日本軍が駐屯。
1910年(明治43年)、小規模なカニ🦀の缶詰め工場が発足。1914年にマルハ(現マルハニチロ)が本格操業開始。夏季限定ではありましたが、第二次世界大戦前の最大の人口を数えるようになります(1000人ほど)。
🔴昭和~
1940年(昭和15年)、陸軍築城部が要塞建設に着手。
アメリカ軍が北方から攻めて来る事を予想して建設されており、大東亜戦争末期には本土決戦のために人員が引き抜かれたものの、それでも一個師団(第91師団)もの兵力を有しました。
さらには満州より転進した精鋭部隊、『戦車の神様』池田末男大佐が連隊長の戦車第11連隊(通称士魂部隊)も置かれておりました。いずれも精鋭揃いで、士気は旺盛でした。
それまでに北方方面は戦闘がほとんどなかったため、食糧や弾薬の備蓄は本土に比べ豊富でした。
🟥占守島の戦い
🔴大東亜戦争最末期の日本は
時は1945年(昭和20年)8月。東南アジアの占領地は奪還され、沖縄や硫黄島は激戦地となり、文字通り壊滅。本土も度々空襲にあい、焦土と化していた日本。
北海道においてもただならぬ被害を受けており、特に1945年(昭和20年)7月14日から15にかけて行われた空襲は熾烈を極めました。
当時は『本土決戦のために』と上陸してきた米軍を迎え撃つための竹槍の訓練がされたり、江戸時代の骨董品レベルの銃まで引っ張り出されたり、鉄や鋼材が不足していたのでコンクリートで貨物船が造られたりする程の資材の逼迫度合でした…。
更には戦闘機や軍艦を動かす為に必要な石油の備蓄もほぼ無くなっており、最早降伏は時間の問題だったのです。
追い討ちをかけるように、8月6日には広島に原子爆弾が投下。9日には長崎にも…。
そして…。
🔴終戦
遂に8月15日に、日本は無条件降伏をしました。ラジオにおいて早朝に重大発表があるとの告知が放送され、正午に玉音放送が流れました。
占守島においては、離島のためか電波状況が悪く、玉音放送をほとんど聞き取れなかったので情報の伝達が遅れ、敗戦を知ったのは15日の夕刻になってからの事でした。
今まで国のために頑張ってきたのに、敗北してしまった悔しさと喪失感で、中には自決する者もおりました。
終戦直後、人々には様々な思いが交錯しており、それは占守島に駐留する人々も同様でした。
「やっと還ることが出来る」
命を賭して任務に務めていた頃は考えもしなかった望郷の念を抱き始めた兵隊さん達。また、終戦により食糧を節約する必要が無くなった事から、食事が大盤振る舞いされたそうです。
戦争が終わり、各地で武装解除や米軍に情報が漏れるのを防ぐために書類や軍用機が燃やされました。
🔴迫る魔の手
しかし終戦直前の9日に、ソ連が日ソ中立条約を破り、火事場泥棒的に参戦。日ソ中立条約はまだ1946年まで有効でした。
蛮行を行う事で悪名高く、当時「露助」とも揶揄されたソ連軍の魔の手が、満州や樺太、そしてカムチャツカ半島とは目と鼻の先の占守島に迫ってきていたのです…。
8月14日には、ロパートカ岬のソ連軍砲台が、占守島北部の武田浜に砲撃を行います。
日本軍のポツダム宣言受諾が公表され、ソ連軍を除く連合国軍は積極的な行動を停止したにも関わらず、8月17日午前5時にはソ連軍上陸船団が泊地より出航。
同日午前6時半ごろには、3機のソ連機が偵察と爆撃を、日中には占守島の軍事目標に対して連続爆撃が行われました。
一方その頃、占守島の日本軍は北海道の第5方面軍の「18日16時の時点で停戦し、こちらから軍使を派遣」「その場合も、なお敵が戦闘をしかけて来たら、自衛のための戦闘は妨げず」との命令により、武装解除や化学兵器の海没処分が行われておりました。
17日にカムチャツカ半島沿岸を舟艇が多数移動しているのを発見しましたが、ソ連軍が侵攻する可能性はないとして重視しなかったものの、同日夜半には沿岸拠点の一部に一応の警戒を命じます。
前線の武田浜には、独立歩兵第282大隊隷下の1個中隊と数門の大砲や臼砲が展開されておりました。
🔴戦闘開始
翌日の18日の午前2時半ごろ、ソ連軍は武田浜に上陸。武器の過剰積載のため接岸出来ず、泳いで上陸してきました。
直ちに独立歩兵第282大隊は直ちにこれを攻撃。ソ連軍も艦砲射撃やロパートカ岬から支援砲撃を行います。ソ連軍側の損害は軽微でした。上陸30分後には海岸に上陸し、沿岸陣地を無視して前進。
午前3時半ごろ、ソ連軍の主力部隊が上陸。これに対して日本軍は激しい砲撃を加え、少なくない損害を与えます。
ソ連軍第2部隊の上陸は午前7時ごろに開始され、日本軍の攻撃により手間取り上陸完了は午前10時までずれ込みました。
上陸したソ連軍部隊は日本軍の激しい攻撃を受けるようになりましたが、午前4時ごろに四嶺山に接近。四嶺山をめぐって両軍の激しい戦いが行われました。濃霧日が多い占守島の気候の性質上、悪天候のためソ連軍は航空機による援護は行えませんでした。
当初、日本軍は上陸してきたのはソ連軍と断定できず国籍不明としていましたが、次第にソ連軍と認識する様になります。それだけソ連軍の上陸は「寝耳に水」の出来事だったのです。
ソ連軍が占守島に上陸したとの報を受け、北海道第5方面軍司令官の樋口季一郎中将は、第91師団に反撃、撃滅を指令。
師団長の堤不夾貴中将は、18日の午前2時半に第11戦車連隊の池田末男大佐に対し、師団工兵隊の一部とともに国端方面(占守島の最北端)に進出し敵を撃滅するよう命じます。
🔴四嶺山の戦闘
戦闘配備命令を受けた池田大佐は、直ちに大和橋の第4中隊に索敵を命じ、本部及び各中隊に占守島中央部の天神山に集結を命じました。
午前5時、池田大佐は天神山に進出。戦車第11連隊の主力も集結しつつありました。戦車の整備が遅れた事により、戦闘に投入できる車輌は全戦車の4割程の25両、さらには歩兵の支援のない状態で、四嶺山の手前の地点まで前進します。
午前6時50分、池田大佐は戦機到来とみて第91師団長の堤不夾貴中将と、歩兵第73旅団長の杉野巌少将に無線を打電し、第1回目の攻撃が開始。
ソ連軍はまだ歩兵のみの戦力で、対戦車兵器の陸揚げが完了していなかったので、苦戦し少なくない損害を受けました。
午前7時半ごろ、第11戦車連隊の稼働可能な戦車が概ね揃い、池田大佐は第2回目の攻撃を下令します。この時もまだ歩兵の支援はありませんでした。
その時、池田大佐は将校と車長を集めてこう訓示しました。
午前7時50分ごろ、第2回目の攻撃が開始。
午前9時ごろ、この頃になるとソ連軍からの対戦車ライフルなどの攻撃が激しくなり、第11戦車連隊の戦車も甚大な被害を受けます。
この際、池田大佐の乗る連隊長車は対戦車ライフルの集中砲火を受け、戦車内の弾薬が誘爆し炎上。乗組員は全員戦死しました。
しかし増援として独立歩兵第283大隊が戦闘加入した事により、元々戦闘力の高い第11戦車連隊はソ連軍を蹂躙し、押し返す事に成功しました。
戦車が27両失われ、連隊の死者は97名にのぼりました。
🔴国端崎へ前進、停戦へ
独立歩兵第283大隊は国端崎へ前進し、ソ連軍が占領していた要所を奪還します。ソ連軍は再奪取を目指して、ここでも激しい戦闘となりました。
18日午後には国端崎の拠点を確保し、第11戦車連隊と歩兵第73旅団主力が四嶺山に、第74旅団の一部がその付近に展開し、ソ連軍を殲滅するのに有利な態勢となります。
昼ごろには第5方面軍司令官より戦闘停止、自衛戦闘以降の命令が下ったため、第91師団は18日の16時をもって積極戦闘は停止することとしましたが、実際には戦闘は続きました。
しかし、なおも戦闘を続けるソ連軍は、ロパートカ岬の砲撃や艦砲射撃も手伝い、遂に橋頭堡(※1)を確保します。反撃行動を停止した日本軍は、無用な損害を避けるために後退しました。
🔴停戦交渉、武装解除へ
第91師団は第5方面軍の命令により、日本軍側から軍使を派遣するという形で、ソ連軍と数度の停戦交渉が行われました。
しかし停戦条件が降伏勧告と同様のものであり、日本軍が受け入れ難いものであったために、交渉は難航します。
…19日・20日と時は過ぎ、停戦交渉が行われている間も、ソ連軍は戦車などを揚陸し、戦闘準備を着々と進めていました。
それに対し、堤師団長はソ連軍に声明を送り、さらに8月21日に攻撃再開の命令を発しましたが…。
第5方面軍の『テイセンスベシ ブキヒキワタシモ リョウカイス』という命令により、停戦、武装解除が行われる事となりました。武装解除は8月23日に、占守島の三好野飛行場で行われました。
この戦いによる損害は、日本軍人の推定値として、日本軍の死傷者600名、ソ連軍の死傷者3000名。ソ連側の数値によれば、日本軍の死傷者1000名、ソ連軍の死傷者1567名。戦闘そのものには勝利したも同然でした。
日本軍の損害がソ連軍に比べ軽微であった理由は、上陸可能な砂浜が狭い武田浜しかなく、上陸地点が予想しやすく効果的に攻撃出来た事や、濃霧に覆われソ連軍が効果的な航空攻撃が行えなかった事。
日本軍の弾薬・食糧が豊富で1日程度の戦闘には問題が無かった事が挙げられます。
ソ連及びロシアの日刊紙であるイズベスチアによれば、ソ連軍の損害の多さにより
と述べています。
少なくない犠牲を払いながらも、終始日本軍が優勢で、戦いに勝ったにもかかわらず敗者に武装解除されるという屈辱は、第91師団にとって筆舌に尽くし難いものがあったことでしょう。
🔴その後
その後、武装解除され捕虜となった日本兵は、数ヶ月の使役の後、「帰国させる」といわれ船に乗りました。
しかし、行き着いた先は日本ではなく、シベリアでした。彼らは2~4年もの間、極寒のシベリアで強制労働を強いられる事となりました。
俗に言う『シベリア抑留』ですが、ソ連の発表によると全部で約60万人もの日本人が抑留され、約6万人の犠牲者を出したとされています。
しかしこれはソ連側が発表した過小な数字であり、アメリカの研究者ウイリアム・ニンモによれば、確認済みの死者は25万4千人、行方不明・推定死亡者は9万3千名で、事実上、約34万人の日本人が死亡したという説もあります。
🟥ソ連軍が侵攻した背景
🔴ヤルタ会談
時は1945年(昭和20年)の2月4日から11日にかけて、ソビエト連邦のクリミア自治ソビエト社会主義共和国のヤルタにおいて、連合国首脳によるヤルタ会談が行われました。
会談内容は戦後の体制についてのものであり、そこでアメリカのルーズベルト大統領とソ連のスターリン書記長が秘密協定を結びます。
この秘密協定により、戦争の勝利のためにはソ連軍の協力が欠かせないため、以前より満州国の権益や樺太南部・千島列島の領有を要求していたスターリンの求めに応じる形で、ルーズベルトはソ連の対日参戦を促したのです。
🔴ロシアの南下政策、膨張主義
ロシアは高緯度に位置しており、一部の港を除いて冬季にはほとんどの湾港が結氷します。そのために不凍港(文字通り凍らない港)を欲しがっており、歴史的に幾度も南下政策を推進してきておりました。
さらに、ロシアの北に寄った国土では、冬が長く農業生産は必ずしも高くありません。
多くの人口を支える事が困難なために、人々はより良い環境を求め未開発の周辺地域に移ろうと努めます。中でもより温暖な南方の土地を求める願望には根深いものがあるのでした。
これらの背景により、ソ連は満州国や樺太南部、千島列島の領有を求め、対日参戦するに至ったのです。
さらには、北海道の右半分『北海道スターリンライン』をソ連の担当地区にする事すら求めておりました(これに関しては、アメリカは千島列島については同意とし、要求に応じませんでしたが)。
🟥占守島の戦いの後、どうなったか?
しかしソ連の野望も、日本軍の奮闘により打ち砕かれ、最悪のシナリオである北海道の分割統治は避けられました。
私事ですが、筆者の父方の祖父が十勝の北東部にある陸別町出身なので、分割統治された場合ソ連の領土になってしまうために、筆者は産まれていなかったかもしれません😱。
また、占守島で激戦を繰り広げた戦車第11連隊・通称士魂部隊は、その奮闘を顕彰し伝統を継承するために、1970年より陸上自衛隊の第11戦車隊(北海道恵庭市、北恵庭駐屯地の第11旅団隷下の機甲部隊)の部隊マークとして受け継がれました。
現在においても、ロシア連邦の団体「ロシア探索運動」のサハリン支部が、占守島島内で日ソ両軍の遺骨の発掘を行っており、日本兵と判明した場合は遺族へ送るなどの活動をしています。
🟥最後に
ものすごく長文になってしまい、すみませんでした💦。
如何でしたでしょうか?
終戦記念日とは、日本人にとって様々な意味で特別な日です。
日本人であると同時に道産子でもある筆者は、何か終戦記念日に合っていて、北海道に関する記事を投稿しようと思い立った時に思い出したのが、昔読んだ漫画『占守島の戦い(小林よしのり)』でした。
そこから自分なりに様々なウェブサイトを巡ったり本を読んだりして調べ、今回の記事にまとめました。
今回の記事が何か皆さんの参考になったり、心に残りましたら、幸いです🙇♀️。
それでは、今日はこの辺で。
また会いましょう。
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