見出し画像

【ふるさとを語る】競馬の歴史 その2 ~ばんえい競馬の歴史~【歴史シリーズ】

🐴はじめに

その1は⏩こちら⏪

こんにちは☺️。

皆様、大変長らくお待たせしました💦。競馬の歴史シリーズもいよいよここまでやってきました。今回は、ばんえい競馬の歴史のお話でございます。

当初は明治中期の黎明期から現在までを一気に書き切る予定でしたが、2000年代前半の存続の危機に瀕していたころから、現在に至るまでは中々に濃密なドラマがある事が調べているうちに分かりましたので、次のパートにてご紹介の運びとさせていただきます🙇‍♂️。

~今回の流れ~

🐴北海道の暮らしの中から生まれた、ばんえい競馬

🐴戦後、公営競馬へ ~隆盛期~

🐴北海道の暮らしの中から生まれた、ばんえい競馬

近代競馬(平地競争)の成立は西洋化の影響や軍馬として活用したい軍部の意向によるものが多分にあり、ばんえい競馬にもその側面はありましたが、ばんえい競馬そのものの始まりは人々の暮らしの中から生まれるという、素朴なものでした。

こちらでは、5月に投稿したその5を掘り下げる形で、ばんえい競馬の黎明期のお話をして参ります。

🐴黎明期のばんえい競馬

除草作業を写したもの。写真の時代は大正期と思われる。馬は人にとってなくてはならない相棒だった。

時は明治中期の開拓使時代。ほとんど未開だった北海道の土地を切り拓くには、人力だけでは足りず馬の力が必要でした。

何百キロの荷物や人を運搬でき、畜力式の農機具を取り付ければ、農耕でも大活躍。寒さや粗食にも耐える事ができ、厳しい環境を生きることが出来たために、大変重用されました。

家屋などを建設する上で必要な丸太を調達するために、山で造材作業(丸太を切り出す作業)が盛んだったころにも、馬は勿論大活躍。

そんな丸太を運び出す、苦楽を共にしてきた馬の力試しとして行われた「ケツ引き」が、ばんえい競馬の始まりとされます。

お祭りの余興として、今もこの素朴な輓馬競技が十勝各地で行われています。

当時は富国強兵の時代であった事から、軍馬調達のために振興された側面はあれど、ばんえい競馬そのものは人々の暮らしから自然発生的に生まれたものなのでした。

ソリに載せた丸太を引っ張る「バチ引き」。馬の品種はペルシュロンと思われる。丸太の巨大さもさることながら、人と比較すると馬の巨大さがわかる。
丸太を引っ張りあう「ケツ引き」の様子を写したもの。写っている人々の服装から見るに明治時代の写真では無さそうだが、最初期にどのような競馬が行われていたかが想像できる良い写真だ。

🐴現代のスタイルに近づいた明治末期

お祭りの余興として生まれたばんえい競馬。いつしか「お祭りばん馬」として定着し、家族で楽しめる数少ない娯楽として親しまれるようになりました。

やがて大正初期の1915年(大正5年)にもなると、現代のスタイルに近い、ソリに人と土俵を載せ引かせる競馬『輓馬実力競争』が誕生します。

ソリに人が乗り馬を操るスタイルは北海道独自のもので、開拓の歴史の中で農業技術を伝達した外国人指導者が、「馬を一人でも操れるように」と教えた技術が受け継がれていると言われています。


🐴戦時中 ~愛馬との悲しき別れ~

1937年(昭和12年)に盧溝橋事件を発端にして、日中戦争(支那事変)が勃発。当時物資の運搬を馬に頼っていた日本陸軍は、軍馬補充部を通じて軍馬を徴発する事になります。

ちなみに十勝では中川郡本別村西仙美里せんびり(現・本別町)に陸軍軍馬補充部十勝支部が設置されており、華族かつロサンゼルス五輪金メダリストだった西竹一(バロン西)が一時期在籍しておりました。

その軍馬補充部には馬市で競り落とされた2歳馬が集められ、5歳まで育てられた後に軍の即戦力として訓練された後、各部隊へと送られていったのです。

戦局が悪化するにつれ、軍馬補充部の馬だけでなく農家の馬も軍馬として買い上げられるようになりました。当時、馬一頭の値段は50~60円でしたが、軍馬として買い上げられると250~300円の高値がつきました。

お国のため、戦時中の苦しい暮らしを支えるためにと、泣く泣く農家さんは愛馬を手放しました。

このように戦地に送り出された馬の数は、全国で70万~100万頭にも登るとされ、戦地から無事に帰還した馬はほとんどいなかったといいます。


🐴戦後、公式競馬へ ~隆盛期~

それまでのばんえい競馬は、あくまで農村のお祭りの余興として行われていて、それとは別に平地競争がメインの帯広競馬が開催されていました。

現在のような形で行われるようになったのは、戦後になってから。一体どのような経緯で公式競技となり、隆盛を極めたのでしょうか?

🐴遂に公式競技へ

公営競馬として本格的に隆盛を極めたのは、戦後になってからの事でした。1946年(昭和21年)に地方競馬法施行規則第9条により、競争の種類は駈歩(平地競走)、速歩(速歩競走)、障害(障害競走)、輓曳(ばんえい競走)の4種類と定められたことを受け、遂にばんえい競走が公式競技となりました。

輓曳が採用された背景としては、先の戦争の影響により馬の数が圧倒的に不足していたため、馬の増産が急務であった事などが理由として挙げられます。

初の公式ばんえい競争は、1947年(昭和22年)に旭川競馬場で行われました。


🐴日本経済の好況を背景に、隆盛期へ

1974年(昭和49年)に建設され、現在も改修されながら使用されている帯広競馬場。完成当時は日本経済の好況を背景に絶大な人気を誇り、スタンドは客で埋め尽くされていたという。

昭和40年代にもなると日本経済は好況に沸き、競馬ブームが巻き起こります。平地競争はもちろんの事、ばんえい競馬も劣らぬ人気を集め、一部の博徒が行うギャンブルから家族で観戦する健全な大衆娯楽へと姿を変えて行ったのです。

それまで北海道民のレジャーだったばんえい競馬が、度々マスコミに取り上げられると、その名が全国に知られていきました。

当時の人気深夜番組『11イレブンPM』では、昭和46年以来10年間にわたり年に一度の特集が組まれ、特別レースの11PM杯を放映。

1973年(昭和48年)には、東京の大井競馬場で2日間に渡って初のばんえいアトラクションは開催され、大成功を収めます。

次の年には、帯広、北見競馬場が新築オープン。翌年には旭川競馬場が移転新築して生まれ変わります。施設の充実にともない開催日も増えました。

昭和50年代当時、新築さらて間もない頃の帯広競馬場のスタンド。
出典:ばんえいまんがどくほんより引用

現在ばんえい競馬は帯広市の単独開催ですが、この頃作られた施設は改修されながら現在も使用されています。

ばんえい競馬は地方競馬の中でもトップクラスの人気を誇り、次々と売り上げの最高記録を更新し続けました。折からのオイルショックの影響を受けて地方競馬が低迷する中でも、ばんえい競馬は女性や子どもも楽しめるようにとファンサービスに努めた甲斐があり、快進撃を続けたのです。

昭和50年代のレースの様子。ようやくこの頃にソリが木製から金属製に変更された。写真奥の電光掲示板は現在も使用されている。
出典:ばんえいまんがどくほんより引用

🐴次回予告

昭和50年代に売り上げ・人気のピークをむかえたばんえい競馬。

その勢いは永遠に続くものと思われましたが、バブル崩壊の影響もあり徐々に人気は下降線をたどり、平成半ばには存続の危機に立たされるまでになってしまいます。

その時、各地方自治体はどのような決断を下したのでしょうか?帯広市の選んだ道とは?再び人気の娯楽として返り咲く事ができるのでしょうか?

次回乞うご期待!

🐴あとがき

如何でしたでしょうか?

本記事が皆様の参考や気づきになりましたら、幸いでございます。

次回は、平成から令和の現在に至るまでのばんえい競馬をお話して参ります。中々ドラマチックな経緯を辿っておりますので、情感を乗せ冗長な文章にならないよう心がけながら執筆するつもりです。

明日14日はAmazonタイムセールのご案内を投稿予定ですので、間が空いてしまいますが、遅くとも17日までには投稿いたします。

その際はどうぞ読んでやってくださいませ。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました🙇‍♂️。

それでは、今日はこの辺で🤗。

また会いましょう☺️。

その3は⏩こちら⏪


⏩とらねこの共同マガジンに参加させていただいております‼️⏪

⏩NS_ここまろ様の共同マガジンに参加させていただいております‼️⏪

⏬ひまじん33ごう🐹|十勝のnoterってどんな人?

⏬筆者の地元・十勝帯広や北海道の物事を紹介する『ふるさとを語る』シリーズです!競馬の歴史は歴史シリーズで読めます!

⏬大した事やってないですけど、Twitterも!

画像をタップ!

この記事が参加している募集

#ふるさとを語ろう

13,645件

よろしければ、サポートをお願いいたします!筆者のブログをより良くするためだけに使わせていただきます!