そろそろ「移住者」っていうまやかしの像に惑わされるのをやめようよ②何が「村民」たらしめるのか
〈導入〉
前回から1年以上経ってしまった。
前回は文章を書くのが久しぶりだったから、なんだか自分らしくない文になってしまったけど、書き直しは面倒なのでしない。
どうやったら書きやすくなるかなー。試行中。
さて、前回は「移住者」と「村民」との間に見えない壁があることを書いた。そしてその壁には「共同体感覚」が関わっているであろうことも。
今回は、主に「村民」の立場から見て、何が「村民」たらしめるのか、『「村民」の条件』について考えてみる。
結論から言うと、『「村民」の条件』は『「家(イエ)」の概念』を持っていることなのだ。
住んでるだけじゃだめなのだ。
うちの村だけじゃなくて、いわゆる「田舎」に共通しそうな内容なので、ローカル界隈の人は読んでって。「うちはこうだよ」って教えてくれたら嬉しい。
以下、架空の村民Xを憑依させて書くので、誤解しないで欲しい。私がどう考えているかとは別なので。
「村民」の条件
「えっ? 前回、長く住んでも「村民」として見られないって言ってたじゃん!」と思った方もいるかもしれない。
逆に「村民」には、「概念? 関係ないよ。移住者は移住者」って言われるかも。
違うんだな〜。わかってないな〜。
そんなんではいつまで経っても、何代住んでも村民にはなれません。
逆に自称ネイティブ村民でも、『「家(イエ)」の概念』を持っておらず、「家(イエ)」に対して責任感を持っていなければ、ただ村に住んでいるだけの人なんだよな〜。
ではまず、「移住者」も「村民」も含めて、なんとなく一般に『「村民」の条件』として挙げられることの多い要素について考えてみよう。
「〇〇がないから村民じゃない!」「〇〇だから村民!」みたいな要素。
いろいろ意見はあると思うけど、以下に挙げるものが村内に揃っている人を「村民」として扱ってる人が多いかな。
家(家屋・宅地)
土地(田畑・山林)
墓(先祖・墓石・墓地)
幼少期の記憶(村生まれ村育ちであること)
でも、これらが必須要素かというと、ちょっと違う。
「村民」の配偶者(婿・嫁)は明確に「村民」扱いを受けるけど、上記の要素を何一つ備えていないケースも多い。
また、借家住まいであっても、先祖の墓は村外にあったとしても、「村民」として認知されている人もいる。
それに、幼少期〜青年期を村外で過ごしている「村民」も多い一方で、村生まれ村育ちの「移住者」もいる。
にも関わらず、「村民」も「移住者」も含め、多くの人が上記の要素を『「村民」の条件』として考えている、ダブルシンク状態にある。
決して、これら要素は『「村民」の条件』として重要でない、というわけではない。
ただ、これら要素は、『「村民」の条件』が具象化した結果であって、『「村民」の条件』そのものではないのだ。
では、『「村民」の条件』とは何か。ここで『「家(イエ)」の概念』が登場する。
「家(イエ)」の概念と役割
昨年、地域のお祭で神輿の担ぎ手をしたとき耳にした、神輿を担ぎに帰ってきた地元出身青年と、巧みに誘われ担ぎ手となった移住者青年との会話が以下。
「家を継ぐ」って言葉の意味がうまく伝わらないのは、自分自身も何度も経験していたので、「そうだよね~」と思ったのがこの投稿のきっかけ。
村外の人からすると、「家を継ぐ」=「家業を継ぐ」であって、もっと言えば「家の仕事(家業)」=「稼業」なんだって気づくまでに、私も時間がかかった。
じゃあ「村民」が「家を継ぐ」といったときの「家(イエ)」は何を示すのか。「家の仕事」とは何なのか。
端的に言えば、「家(イエ)」は「地域コミュニティを構成する最小単位」であり、「家の仕事」とは「その家の人間として地域コミュニティを維持すること」なのである。
具体的には、以下の3つの役割を果たすことになる。
所有物件の管理
地域コミュニティへの所属・地域維持活動
家の再生産
役割1.所有物件の管理
これはわかりやすいんじゃないかな。
それぞれの家が所有物件を適切に管理することは、ひいては地域全体を管理することに繋がる。
ここで言う物件とは、家屋と宅地はもちろん、墓地や田畑、山林など。やや共有度が高まるけど、道(里道・共有道)なんてものもある。
この役割が放棄された結果生まれた、空き家や耕作放棄地、荒廃山地などは、日本全体で大きな問題となっている。
さらに言えば、所有者個人は困っていないのがこの問題のポイント。困るのはその物件のある地域の人々だ。
だから、地域コミュニティは「家(イエ)」に対してこの役割を求めるのだ。
逆に、すでに村外へ出ていった家であっても、物件が村内に存在し、その管理を適切に続ける限りは、村内における家としての存在感は残ることが多い(山林は別かもだけど)。
役割2.地域コミュニティへの所属・地域維持活動
うちの村でいうと、12の行政地区がこの地域コミュニティにあたる。いわゆる自治会というやつだ。
おおよそすべての地域維持活動は、この行政地区を単位として行われる。
地域維持活動として具体的には、
・河川や道路の清掃
・ゴミステーションの清掃
・自治会役員や各種委員
・地区としての行政への要望
などがある。
「地区単位での活動なら、他の地区に住んでる移住者には関知しないんじゃない? 移住者だろうが村出身者であろうが、コミュニティ違うから関係ないでしょ。移住者っていうレッテル貼りは同一地区内でだけ起きる話?」と思われるかもしれないが、これは間違い。
他の地区(自分と違うコミュニティ)であっても、そこに所属しているか否かで「村民」か否かをジャッジするのが「村民」なのだ。
そもそも地区ってのは物理的な範囲を示すものではない。
地図上で引かれた行政地区という便宜的な概念が、地区の本質の理解を難しくしている。
「家(イエ)」は地区(地域コミュニティ)を構成する最小単位であり、地区はその維持のため複数の「家(イエ)」が組んだユニット。そしてユニットの連合体が村なのだ。
これは行政地区の元となった旧村時代(明治合併以前)から引き継いだ感覚だと思う。
さらに言えば、「移住者」というレッテル貼りも、「家(イエ)」単位で行われる。
「移住者」の子は「移住者」なのである。たとえ村生まれ村育ちであろうと。
逆に言えば、「村民」の配偶者(婿・嫁)は「家(イエ)」に取り込まれ「村民」となる。
役割3.家の再生産
「村内に家も建てたし、地区にも所属して役員もしてる。これで村民って言えるでしょ?」
違うんです。言えないんです。
「家(イエ)」に求められる役割の最後のひとつは、「家(イエ)」を再生産すること。
つまり、子どもが大きくなってその「家(イエ)」を担うこと。
これがなければ地域コミュニティは縮小していき、その維持ができなくなるからね。
「子どももできた。これで村民扱いされるな」
これも誤り。なぜなら「家(イエ)」自体に再生産の実績がないから。
「村民」や「移住者」のレッテル貼りは「家(イエ)」に対して行われる。
だから、子どもが「家(イエ)」を担うころには、子どもは「村民」になっているかも知れませんね。
逆にいうと、子どもが居ない、または子どもは村に帰ってこないことがわかっている人でも、「家(イエ)」に再生産の実績があれば、その人は「村民」なわけだ。
なんでそこまでして「村民」と「移住者」とを区別するの?
ここで、「移住者」へのレッテル貼りの際に言われがちなセリフを一つ紹介したい。
「どうせ出ていくんでしょ?」
これは多くの移住者が言われたことのあるセリフではないだろうか。
この言葉には、「村民」の「移住者」への積年の想い、期待と絶望が繰り返された結果としての諦念が隠されている。
どうして「村民」はそんなに「村民」と「移住者」とを区別するのか。
それは、もう期待を裏切れたくないからだ。
地域コミュニティの維持にはコストが掛かる。
地域維持活動のコストはもちろん、他の「家(イエ)」とのコミュニケーションのコスト、ネゴシエーションのコストもある。便宜上「交流のコスト」と呼ぼう。
「家(イエ)」々がこういったコストを支払うことで、地域は現在の姿を保ってきた。
新しい「家(イエ)」が地域コミュニティに加わるとき、他の「家(イエ)」はこれらコストの支払いを新しい「家(イエ)」要求するとともに、新しい「家(イエ)」との交渉のコストを負う。
新しい「家(イエ)」との交渉のコストは、元々コミュニティを形成していた既知の「家(イエ)」との交渉のコストに比べて高い。
そして、交渉のコストが実を結ぶのは、新しい「家(イエ)」が「家(イエ)」の再生産をしたときなのである。
また、新しい「家(イエ)」は、既存の「家(イエ)」々が代々コストを支払ってつくりあげた地域を低コストで利用する。
新しい「家(イエ)」を地域コミュニティのメンバーにいれるとき、言い換えれば、「移住者」を「村民」として扱うとき、既存の「家(イエ)」々は未来の地域コミュニティのための投資をしているのだ。
街道筋に位置するうちの村は、古くから多くの移住者を受け入れてきた。
現在でもその流れは変わらず、今では人口の15%超が移住者で構成されている。
そして、2008年以降の移住者の定住率(定着率)は、2023年現在で66.7%である。
移住者定住政策を行っている自治体から見ると、この数値はとんでもなく高いだろう。
しかし、家族連れでの移住がこの率を押し上げている部分はあり、「家(イエ)」単位での定住率(定着率)は、この数値からは確実に下がる。
少なくとも「村民」からすれば、「移住者」の「家(イエ)」は半分くらいが確実にいなくなる存在なのだ。
地域コミュニティの新たな担い手を期待して、「村民」は「移住者」を「村民」扱いするコストを支払う。
しかし、多くの「移住者」は去っていく。
これが繰り返された結果、「村民」は諦念から移住者を「移住者」扱いする。
地域コミュニティの担い手になる気がないなら、地域のフリーライダーにもならないでよね。
これが「村民」が「移住者」を区別するときに浮かぶ素直な気持ちだろう。
逆に、「家(イエ)」の概念を持っていて、「家(イエ)」として地域コミュニティの担い手となり、自分たちがフリーライドしている感覚を持っている「移住者」に「村民」は甘い。
前回紹介した地域の先輩は、多くの人から「(準)村民」として認識されている。
なぜなら、本人が自分のことを「村民」ではないと認識しているからだ。
「家(イエ)」に実績がなくとも、「家(イエ)」の概念を無意識的に理解し、フリーライドを避けることで、「村民」から少なくとも地域コミュニティを担う仲間として認識されているのだ。
ようやく脱却しかけた「しがらみ」にこそ、「自治」の可能性が隠れている。
前回、私は「移住者」と「村民」という区別を真っ向から否定した。
そこで語られる「村民」、ひいては今回語った「家(イエ)」なんて、何も生み出さない「しがらみ」でしかないからだ。
それなのになぜ今回、「村民」の立場から『「村民」の条件』を深堀りしたかとういうと、その「しがらみ」にこそ、「自治」の可能性が隠れていると考えているからだ。
私には、自分たちの新しい村をつくるという野望がある。
その村では、「村の選択」は「私たちの選択」であって欲しい。
でも、そのための「自治」という行為は、「しがらみ」の生産でもある。
だからこそ今、憤りを感じている「しがらみ」を整理しておきたかった。
「家(イエ)」の概念が、何も生み出さない「しがらみ」となってしまったのには理由がある。
かつて地域コミュニティ維持のために必須だった「家(イエ)」という規範は、資本主義(というより市場経済)の浸透により価値を失ったかに見える。
市場経済は「家(イエ)」や「地元」「職場」といった「しがらみ」から、私たちを解放してくれたように見えた。
しかし、得た「自由」は少ない選択肢からどれを選ぶか程度の「自由」でしかなかった。
このあたりのことは、『コモンの「自治」論』に詳しいので、ぜひ読んでね。
村の図書館に入れてもらったので、村民はそちらでも読めるよ!
最後に
読んでくれてありがとうございました。
斎藤さんは書籍ではホントかっこいいね。
なんで対談とかになると、噛ませ犬役というか、業界に無知な引き立て役になっちゃうんだろう。そのほうが仕事来るのか?
でも、この本は本当に面白かったのでぜひ読んでね〜。
〈次回〉
そろそろ移住者っていうまやかしの像に惑わされるのをやめようよ③まやかしの「移住者」の弊害 更新未定!