そろそろ「移住者」っていうまやかしの像に惑わされるのをやめようよ①
「移住者」は「村民」ではないのか。
〈導入〉
人口千人規模の山村に住んでいるのだけど、ネイティブ(村民)と移住者とを分けたがる傾向はやっぱり存在する。実際に置かれた状況は違うし、ある程度はしょうがないかなとも思う。なんだかなーと思うのは、両者を不必要に分けてしまうことや、政治や行政までもがそのまやかしの区分を元に動いてしまっていること。
私の住む村は移住者が多い村として界隈では有名で、実際に今では全住民のうち1.5割超が移住者(Iターン者とその子ども)だ。「移住者」と対になる言葉として「村のひと」や「ネイティブ(村民)」という呼称が使われる事がある。村出身者、あるいは村出身者の配偶者も含め、移住者と区別するためにこの呼称は使われる。
いつまでも「移住者」であり続ける移住者。濫用される「移住者」。
さて、「移住者」はいつ「村のひと」となるのか。
「30年以上この村に住んでいるけど、やっぱりまだ移住者であって村のひとだとは思ってもらえないからなあ」と私が小さな頃からお世話になっている地域の先輩は言っていた。
移住してこの村に住んでいるという事実がある以上、移住者であるというバッチを持っているのは納得できる。でも村のひとにはなってるんじゃない? と思うのだけれど、そう簡単じゃないらしい。
住民同士の会話はもちろん、政策でも「移住者のための〜」とか「移住者が増えた事で◯◯が必要に〜」とか、果ては選挙でも「村民も移住者も手を携えて〜」と、移住者を村民と異なる存在として表現する次第。移住者を非村民として無意識的に区別する感覚はどこから来るのだろう。
「移住者」は「村民」ではない。「村民」は「移住者」ではない。
これは程度の差こそあれネイティブ(村民)の持つ無意識的な感覚で、きっと私の中にも存在する。「自分はこの村のことを(最近来た)移住者よりも知っている」という自負だったり、移住者から向けられる区別への反作用だったりと理由はさまざまだけど、私自身この感覚を持つことがあるのは事実だ。
「移住者」と「ネイティブ(村民)」を分けたがる傾向は、何もネイティブ側にのみあるわけじゃない。移住者側からネイティブを自分たちと異質な存在として(一種、悩みや問題を共有できない存在として)区別するために「ネイティブ(村民)」や「村のひと」というワードが使われることもある。
私には子どもが2人いるので、ママ友パパ友としての移住者と接する場面が多い。
移住者が子育てに関して他の住民と話すとき、相手も移住者か否かを気にするのは、①村内に実家がなく子の祖父母が近くにいない。②子育ても含めた生活環境に対して不慣れ。という共通の前提を確認したいという意識が働いているからのよう。
もちろん会話の導入のためだったり、他の理由もあるだろうけど、これはコミュニケーションをとるにあたって当たり前のことだとも思う。
ただ、中には強烈に区別をしたがる人もいる。
曰く、「『村の人』は子どもを祖父母に預けられる」「地域のおじいちゃんおばあちゃんにみてもらうこともできる」「『移住者』は頼れる人もいない中での子育てだから大変」と。
本当にそうなのかはまた考えてみたいと思うけど、「ネイティブ(村民)」というレッテル貼りで話しかけてくる人に対して、自分を仲間と見てくれない「移住者」なんだなと壁を感じることもあったりする。悲しい。
「移住者」と「村民」とを分けるもの
ちなみに新たなママ友パパ友と知り合ったばかりの頃は、私が移住者だと勘違いされるケースが多々あった。移住者であるパートナーがネイティブ(村民)だと勘違いされることも。勘違いの理由に興味があって探りを入れてみると、私が腰低敬語ムーブを取りがちなのに対し、パートナーは堂々と「オレの村」感を出していることに原因があるらしい。また、村民と結婚した移住者は「村民」として扱われるケースが多いのもおもしろい点だ。
私は「村民」と「移住者」との境界を決めるのは共同体感覚だと考えている。
「オレの村」感も共同体感覚が態度でもって表に出たものだろう。逆に言えば、「村民」からみて「移住者」は共同体の一員じゃないということになる。「お前の村じゃない」と言うことだ。
そんな訳あるか。移住者だろうがネイティブだろうがこの村に住んでいれば村民だろ。この村は今ここに住んでいる住民のものだろ。
でも、私が悲しんだり腹を立てたりしたところで人の考えは変わらない。だからせめてもの抵抗に、このまやかしの「村民」や「移住者」について考えてみたいと思う。
〈次回〉
そろそろ移住者っていうまやかしの像に惑わされるのをやめようよ②何が「村民」たらしめるのか更新未定!
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