良い仕事は「正しく読む」ことから。自分のアウトプットは自分で直せ。
皆さんは、「自分の伝えたいことが中々伝わらないな」「資料の表現をいつも直されるな」と思ったこと、若しくは同じことを部下やメンバーに対して思ったことはないでしょうか?
そういう時、人はとかく「もっと言い方を気を付けよう」「資料の作り方を勉強しよう」といった、"アウトプット"への意識が向いてしまいます。
ですが、どれだけアウトプットの努力をしようとも、一発で良いものが出来上がる訳がありません。
その時に必要になるのは「一度出したアウトプットを自分で洗練させること」。そして、そのために必要なのが「読解力」、ひいては「国語力」だと思っています。
軽視されがちな国語力ですが、今この時代において極めて重要な力であると確信しており、今回はそれについて綴ってみたいと思います。
なぜか"出来る"と思っている「読む」こと
なぜ世の中に「大人向けの英語塾」は山のようにあるのに、「大人向けの日本語塾」は無いのでしょうか。
それは、「日本語の読み書きなんて、当然できるよ」と誰しもが思っているからでしょう。確かに、日本語を使って育ち、仕事をしているのだから、当たり前に思えます。
ですが、使い慣れているツールだからこそ嵌るトラップがあることに気が付いている人は少ない。それはなにかというと、「バイアス」です。
漫画「ドラゴン桜」第5巻では以下の詞を使って、「二人の関係と現在の状況を答えなさい」という問いが立てられました。皆さんはどう思いますか?
この問いに対して、生徒二人は「愛している彼がいるのに、愛されていない。彼には他に好きな女がいる。失恋の歌だ。」と答えます。
ですが、答えは「アルツハイマーのご主人を看護する夫人の様子」を表しています。皆さんは答えに近づけたでしょうか。
この問いは少し簡単でしたが、この生徒二人のように「日本語を"文字"としては読めているが、"意味""意図"を正確に理解出来ていない」というケースはそこら中に蔓延しています。
なお、人間である以上、バイアスから逃れることは出来ません。逆にバイアスの無い人間なんて面白くも何ともないです。あっていいんです。
ということは、論理的帰結として「自分は必ず正しく読めている、と考える」こと自体が矛盾している、ということになります。
まずは「自分は正しく読めていないかもしれない」と考えることが、全ての第一歩です。
自分の文章が一番正しく読めない
上の話は、「他人の書いた文章を正しく読めるか」という話でした。では、自分の書いた文章なら正しく読めるのでしょうか?
私の答えは、「世界で一番正しく読むのが難しいのが、自分の書いた文章である」です。きっと、皆さんにも共感していただけるのではないでしょうか。
筆者は色んな情景を頭に浮かべながら、その文章を書いています。全く脳を使わずに文章を書いている人などいないはずです。
そうすると、例えば「主語が抜けている」としても気が付けません。何か一つの「つなぎのシーン」が抜けていても、気が付けません。
自分で気がつけるようになるには、いわゆる「メタ認知」的に自分を幽体離脱させ、できる限り他者に成り切って読む必要がありますが、これは一朝一夕にできることではない。
結果、自分で読み直しても「うん、いいじゃん」となって、そのままリリースしてしまう。
これでは、「誰かの援けを借りない限り、自分のアウトプットの質を高めることが出来ない人」であり続けてしまいます。。
では、どうしたらいいのか
①読みながら「問い」を立て続ける。特に自分の文章を読むときに。
ドラゴン桜に出てくる国語教師、芥山先生はこのように言っています。
まさにその通りだと思っていて、私も文章を漫然と読んでいる時は、理解違いもしますし、情景もあまり浮かんでいない。ビジネス書の時も理解が浅いです。
そうではなく、「え、今どういう状況?」「そうはいうけど、本当か?」「なぜこの人はそう思ったの?」といった疑問を持ちながら読んでいる時は理解度がぐっと上がります。
これを自分の文章を読む時にとにかく意識する。「おい細田、本当にそうか?」「この言葉の意味って他にも捉え方あるんじゃないか?」・・・etc。
自分で自分を虐めるように問いを立ててみてください。一気に校閲力が上がると思いますよ。
②「チェックポイント」を意識する
文章全体の構成や文脈に対する「バイアス」は千差万別なので、とにかく「問い」を立てることで出来る限り自分を遠ざけるしかないと思います。
ですが、もっとミクロに入った「一文一文」に入っていくと、かなりパターンがあり、それを押さえるだけでかなりレベルアップさせられます。
私が良く見る典型例は以下。
これらすべてに共通するのは、「筆者の脳の中にある文章」と「書いている文章」が異なっていて、そのギャップが「筆者の脳内」で埋められている、ということです。
小説であれば、そういったギャップ自体に価値があったりもするでしょう。「考える・想像する」こと自体が読み手にとっての付加価値になるので。
ですが、仕事でそれは起きません。「出来る限り、誰が読んでも同じ情報を得る形で届ける」のが情報伝達の基本ですので、ギャップは小さければ小さいほどいいわけです。
自分が他者から指摘されたり、自分で気付いた校閲ポイントを溜めて一覧にするのもいいですし、世にある良いリストを使うのもいいでしょう。
私はCybouz仲田さんの「テクニカルライティングの基本 2023年版」をとにかく愛用していて、セルソース内でも定期的に広めています。
まさに「暗黙知」的であるバイアスを「形式知」に直したもので、「形式」からバイアスをやっつけてしまう、という方法ですね。
③英語(他言語)を勉強する
私は、社会人になって英語をイチから勉強した人間ですが、英語を勉強したことの恩恵は、英語力よりも国語力が上がりました。
余り聞かない話かもしれませんが、「これって英語だったらなんていうかな」と考えること、それ自体が強制的なメタ認知であり、実は当たり前のことなのです。
最近で言うと、僕の本部メンバーに「時制」について、英語の考え方を取り入れて読み書きするように伝えました。
世にある文章でも、以下の4つがごちゃ混ぜになっていることが非常に多いです。
過去のその瞬間の話(過去形)
過去から今日まで続いている話(現在完了進行形)
過去の過去の話(過去完了形)
過去の過去から、過去まで続いていた話(過去完了進行形)
これはなぜかというと、日本語だと「過去完了形はこうやって書く」というような型がないので、かなり想像力を働かせないと「1-4」のどれに当てはまるのか、が分かりません。
ですが、英語は形が明確に変わるので、見ればわかる。なので、僕は日本語の方が時制は難しいと思っています。
ここを「なんとなく」書くのではなく、「英語だったら過去完了進行形で書く内容なのに、なんか今日まで続いているように読めるなあ」とか考えて読み直せたら、かなりレベルの高い校閲になると思います。
「受験勉強に意味がない」?そんな訳ない
最近、NewsPicks動画などで中学受験やら大学受験の是非が議論されています。
私は神学論争の類だと思っているので見ないようにしていますが、「〇〇受験は意味がない」という極端な意見に対しては強くNOと言いたい。
私は22歳になるまでは一切本を読みませんでしたが、有難いことに「言語化能力」や「文章力」を褒めていただくことがとても多いです。
仮に私がこの二つの能力に秀でているのだとすると、間違いなく「中学受験」のお陰です。例えば、
中学受験の文章題は基本的に上記のような問いが並びます。
テクニック的には「設問箇所の前後3行に答えがある」とか言いますが、一定以上の難関校となるとそれだけでは全然だめで、文章全体を咀嚼し、その上での回答が求められます。
これを真剣にずっとやっているだけで、自然と「問い」を立てながら読む癖が付きました。さらに、「自分の書いた文章も読み直し、それに採点を受ける」ことも何千回とやるので、ドンドン幽体離脱が進みます。
ここで何が言いたいのかというと、「〇〇受験が良い悪い」とかではなく、「何をどうやるか」で全ては変わる、ということです。
「プロセス」にマルバツを付ける話ばっかりしてる人を見ると、少し悲しい気持ちになりますね(それ自体に意味がない、とは言いませんが)。
おわりに
今回、このnoteを書きながら、「問い」の重要性に改めて気が付きました。
「AI時代は、"答え"より"問い"の方が大事」みたいなことが良く叫ばれ、私もそう思いますが、完全に別テーマだと思って書き始めた「国語力」に纏わる話が「問い」に合流したことには自分で驚きました。
自分が思っている以上に、社会、そして個人が持つ多くの課題は「問いを立てる力」を高めれば解決するのかもしれませんね。
さて、次の記事で記念すべき100本目に到達!何を書きましょうかね。。
では、また来週お会いしましょう。
細田 薫