知多半島を盛り上げたいという思いで始まった、畑のマルシェ。 燻っていた気持ちを持った同志が次々とマルシェに参加したいと現れました。 とはいえ、イベントの運営とか企画なんてよくわからない中でも 足を運んでくれた人たちが楽しみながら、その場所にいる姿をずっと追っかけていました。 しかしまだまだ出店してもらえる人も少ない。 コーヒーだけじゃ、物足りない。 だったらお菓子とか食べ物も作ろう。 出来ればこだわりの美味しいものを。 当時私はテントでの露天営業許可しかなく
タイトル通り、 嵐のようなお天気で始まった 第一回畑のマルシェは、 大雨暴風雨警報さながらの 凄い日になってしまいました。 まさか最初のマルシェが いきなり中止⁈というというのもなぁと 若干悩んだものの、 共同主催のNさんが 「うちで開催しよう!」(彼女のお宅です) と言ってくれたおかげで 当日朝ブログに、 急遽、おうちでマルシェになりました。 開催場所の個人宅までは 車でピストン輸送します。 とお知らせをして、 なんとか最初の 畑のマルシェ
私の住む知多半島は 夫と結婚するまでほとんど ご縁がなかったのですが、 結婚、そして出産からの再就職、 のちコーヒー屋を始めてからは いろんな人と繋がるまで、 さほど時間はかかりませんでした。 コツコツ活動していく中で とても気の合う素敵な女性がいました。 その方のセンスはとても素晴らしくて 器用な方でもあったので 憧れの人でもありました。 お互いに子供の歳も近かったり 自分たちも同じ世代だったのもあり、 せっかくのご縁で出会った事もあり、 何か
私が本格的に 移動販売車でコーヒー屋をする前に 活動していた時の話の一つ。 愛知県に住む私は 知多半島と言われる 自然環境に恵まれた土地に居を構えてます。 しかし当時の愛知県はマルシェとか、 イベントらしいイベントはほとんどなく、 他県のイベントに足を運んだり、 自宅でコーヒーの淹れ方の教室を 友人のアクセサリー作家さんと開催したり、 コーヒー屋さんになるために、コツコツと小さなワークショップをしていました。 時には私の師匠に出会うきっかけをくれた雑貨
私が出会った師匠は、惜しげもなく コーヒーにまつわる知識を 本当にたくさん教えてくれました。 師匠は普段、会社員として働く傍ら 奥様とご家族がコーヒー豆の販売を されています。 師匠の自宅の離れには、 焙煎する工房があり、 飲食の提供は かっこよくカスタマイズされた ブルーの箱バンの軽自動車で、 飲食店営業の許可を取られていて イベントの時に、この軽自動車を 出動させるとおっしゃっていました。 お店を持つより、 ランニングコストの 比較的負担の
私は飽きっぽい性格ですが、 ブログはなんと11年やってます。 始めたときは つれづれ日記風で 特に目的なく、ただ時間だけは たくさんあったので 思うままに書いていました。 コーヒーの事を書こうと思ったのは 自然な流れで、 少しずつ、 コーヒーの事を意識し始めながら ぽつぽつ増えていく読者さんの数に 嬉しさを感じていました。 ある時は、 コーヒー関係のお仕事を始めていた 部長、と呼ばれる人が現れて 面白いコーヒー屋さんがいるよ、と 教えてもら
職を無くした私は とりあえずバイトをいくつか 掛け持ちをし、 時間が出来れば カフェやコーヒー屋、喫茶店を 巡り、 なんの取り柄もない どこにでもいるおばちゃんに なっていく事に焦りながら いわゆる、自分探しの放浪の旅を 続けていました。 少し話を戻すと、 仕事を辞める何年か前に ある本を教えてくれた ある方と出会いました。 小説になりそうなくらいの この方との出会いについては 今回はさらりと流しますが そのある本を教えてくれた そ
ふざけた話だと思いますが、 私はほとんどコーヒーが飲めない人でした。 それなのに、コーヒー屋を始めようなんて 思い、生業にしてしまった無謀さは 夢や憧れだという思いで コーヒー屋を始めた人からしたら コーヒー屋をなめるなよ、と言われても 何一つとして言い返せないです。 しかし そもそものきっかけは のべ15年の間、 一般企業で働き、 最後の就職先だった会社で起きた パワハラとセクハラを受け、 上司に訴えたものの うやむやにされて、 「ああ、もう
人生は平坦な道より、 困難な道ほど味わいがある。 よく聞くこの類の言葉は まさに私がこれまで選んだ人生の 事を言っているようなもので、 第二の就職から4年半。 幸か不幸か職場の人間関係に 恵まれず、契約社員の更新を 打ち切り、一旦家庭に収まって 暗黒の30代後半を 毎日何の希望もなく 過ごしていました。 ただ唯一の心の拠り所は ブログを始めていたこともあり、 そのブログのには 想いの丈を綴り、 細々といた読者さんとの やりとりがありました。