正岡子規の短歌について

 先日、岩波文庫の「子規歌集」を久しぶりに読み通した。そしてやはり私は子規の短歌に対する態度が好きであると感じた。
 人も来ず春行く庭の水の上にこぼれてたまる山吹の花
 これは子規の歌であるが、何と洗練された写生の術であろうか。歌を声に出した直後、歌に詠まれた光景がありありと目の前に広がる。すると私の心は大きく動くのだ。これこそ短歌に心を動かされた瞬間というものだろう。
 紅の大緒につなぐ鷹匠の拳をはなれ鷹飛ばんとす
 うらうらと春日さしこむ鳥籠の二尺の空に雲雀鳴くなり
 古萩の若葉の陰に子をつれて雀のあさる昼中の園 
 これらの歌も写生が徹底されている。だがどの歌にも熱い生命の源が満面なく流れている。どうして私はこれらの歌を通してこれ程にも感情的な気持ちになるのか。これらの短歌には、感情を表現するような言葉は一つもない。だが私の心は歌に込められた感情の泉のようなものを感じている。まるで子規の施す写生が魔術のようだ。
 
 子規の言葉に以下のものがある。「全く客観的に詠みし歌なりとも感情を本としたるは言を竢たず。例えば橋の袂に柳が一本風に吹かれて居るということをそのまま歌にせんにはその歌は客観的なれども、もとこの歌を作るというはこの客観的景色を美なりと思いし結果なれば感情に本づくことはもちろんにて、ただうつくしいとか奇麗とかうれしいとか楽しいとかいう語を著くると著けぬとの相違に候。また主観的と申す内にも感情と理屈との区別有之、生が排斥するは主観中の理屈の部分にして、感情の部分には無之候。感情的主観の歌は客観の歌と比してこの主客両観の相違の点より優劣をいうべきにあらず、されば生は客観に重きをおく者にても無之候。」
 子規にとって短歌に用いる写生術とは哲学であったはずだ。感情をありのままに詠むためには、写生の他に術はない。感情を大切にするために主観から離れるというパラドックスは、子規にとってはそれしか考えられないほどに自然なものであっただろう。
 瓶にさす藤の花ぶさみじかければたたみの上にとどかざりけり
 これは子規の有名な作品であるが、何と美しく子規の感情が表れていることだろうか。この歌を口に出した後、まるで旋律の美しい響きを耳にするように、私は自らの心が動いたことを感じた。子規の歌が私の心に自らの感情を語りかける。その方法となる写生とは、自らが生活する世界に己の心を見出して、それに自分自身の心を預けるというものであった。それだけで歌は美しい調和を持って感情を美しく響かせる。これこそが子規の求めていたものであって、短歌の本来持つ力による最も美しい心の表現方法なのではなかったのだろうか?客観的な写生によって表された歌の内面には、しっかりと作者の感情から生じた心のメロディが込められている。その音色を聞くだけで、私は歌の創作者と会話をした気持ちになれる。この美しい音楽は、子規の写生術だからこそ表現できるものに違いない。
 「子規歌集」を読了して、自らが非常に好きだと感じた歌を幾つか上げる。どれもが子規の写生によって、美しい心のメロディを奏でている。
 人桶の水うちやめばほろほろと露の玉散る秋草の花
 新しき庭の草木の冬ざれて見ず盤の水に埃うきけり
 冬ごもり茶をのみをれば活けて置きし一輪薔薇の花散りにけり
 いたつきの枕べ近く梅いけて畳にちりし花も掃わず
 松の葉の細き葉毎に置く梅雨の千露もゆらに玉もこぼれず
 松の葉の葉毎に結ぶ白露の置きてはこぼれこぼれては置く
 庭中の松の葉におく白露の今か落ちんと見れども落ちず
 くれないの牡丹の花におほひたるやぶれ小傘に雨のしきふる
 玉透のガラスうつはの水清み香ひ菫の花よみがへる
 どの短歌も写生によって表されているが、私が思うにそれを可能とするものは、自らの生活の土台となる世界に対する敬いによる他はない。誰しもに自らの生活を可能とするための世界がある。その世界には、自然もあるし他者との関わり合いもある。そのような視界に映る全てのものを包括する世界に対する敬い、又は愛情などが短歌の写生の基になる。言わば短歌の写生術とは、世界に対して抱く愛情であるのだ。
 私が思うに短歌とは、世界を鏡にして自らを語ることである。世界に対して愛の目を向けると、いつの間にか世界が透き通る鏡となって、自分自身の心を写してくれる。だからこそ後は世界をそのまま切り取るだけで、自然と歌に心を表すことができるのだ。これが世界を写生して歌うことであると私は考える。

 私も素人なりに幾つか歌を詠んでみた。次の四首である。
 寒風に揺れる雲なく大空は青色だけが光り輝く
 大木に残る少しの枯れた葉が風に吹かれて微かに揺れる
 南天の実に水滴が留まりて硝子のような珠が現る
 細やかな雪がゆっくり降り注ぎ地面に落ちてすぐになくなる
 どの歌にも私の心が表れていることを望む。しかし短歌は難しい。だからこそ多くの人が、一生を掛けて自らの短歌を追い求めるのだろう。

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