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映画『怪物』を観て

先日、長野県岡谷市にある「岡谷スカラ座7」というところで、是枝裕和監督の『怪物』を観た。

以下ネタバレを含みます。


映画の終わりの数分間。ああ、このまま終わるんだなあ。これはどういうことなんだろうと考え続けるモードに突入してしまうやつだなあと、すこし、終わらないでほしいような、でもひとりでこの余韻を反芻したいような気持ちになった。

以前『万引き家族』を映画館で観たときに、場内が明るくなって立ち上がったときに、出ていくカップルの男性が「悲しい最後だね」と彼女に話しかけていたことを、なぜかとてもよく覚えている。

それはなんというか、とても現実的な、ある意味では救いのない最後のカットだった。

それに比べたら、これは救いなのか。祈りなのか。妄想なのか。ふたりは死んだのか。生きているのか。

映画の中の、この先の現実を想像してみる。

もし死んでいたのなら、そこで初めて、なぜこうなったのかという事実を登場人物全員がが突き合わせ、ああそういうことだったのかと、何をどうしていればよかったのかと、ふたりは死なずにすんだのかと、そういう話ができたのかもしれないなと思う。

いやそれは、生きていたとしても、可能なのかもしれない。なぜいなくなったのか。命の危険があったわけだから、そういう場面を乗り越えてすべてを、話すことができるのかもしれない。できないのかもしれない。

でもこういった、言えない気持ちの積み重ねとすれ違いと、思い込みと、怒りに任せて言わなくていいことまで言ってしまう感情

そういったものは日常に、社会に溢れ、自分も気づかずに誰かを傷つけ続けて生きているのかもしれないと、図らずに誰かを何かを差別しているのではないかと、

現実を生きる自分はまだ十分に、思い返すことができるのだ。これからも。

ここ一年くらいちょうど、差別について特に深く考えるできごとが幾つかあった。

そのことについてクィアの友人と(性的マイノリティに関することだけでなく)たくさん話しをしてきた。

自分も差別する側としても、差別という事象から自由ではいられない。差別意識がないとは、絶対に言えないなと思っている。

そういう意識を、どうやったらゼロに近づけていけるのかということを、たくさん話してきた。

自分も、差別されているし、されたくないけれど仕方ないなと思っていることがある。

自分のそういう部分と社会と、どう折り合いを付けていくのか、あるいはつけないで生きていくのか。今一番考えていることである。

そういった、今生きている世界の不条理に怒ったり悲しくなったりする一方で、同じくらい世界の良さを感じたりもする。

生きているのは悪くないどころか、素晴らしいなと思うことも同時にたくさん起きている。

年をとるごとに、そういう思いが強くなっている。それは、自分が取り扱える自由の幅が、成長するにつれて大きくなっていくからだ。

幼いときにどうしたらいいのか分からないことも、自分で解決できる選択肢は着実に増えていく。

大人になった今でも、環境に不公平はあるけれどすくなくとも、子どもの頃より10代よりは、社会を生き抜くすべを知っている。理解してもらえないと思っていたことを、理解してくれる人がこの世の中にいることを知っている。

それは、結局自分で体感して得てきたものだけれど、だから世界は広いのだということを、この世に生まれて10年くらいの子どもにも、どうやったら見せられるのだろうということを、自分の子どもの頃を振り返って思う。

でもそれはたぶん、こういう言葉を言えばいいとか、そういうことではないのだなと思う。

生き方の連鎖なのかなと思っている。

社会にとらわれず、自分が良いと思ったものを選択する自分を尊重する。そういう生き方をしている人をごく身近で見ていたらたぶん、幼い自分も世界をもっと広く捉えていたかもしれない。

男らしく、女らしく、普通に、一般的に多く支持される生き方で、生きていきたいし生きてほしい

らしさの定義もむずかしいが少なくとも、社会に存在する軸みたいなものから大きく外れないでほしいという思いを

私はとても素敵だ、とは思わないけれど、そんなこと思うなよとも言えないし、外れるなと思って子どもを育てる気持ちも、すごくわかる。

登場人物みなに共感できるところがあって、演技もとても素晴らしかった。そして、出番はすくなかったけれど父親役の中村獅童が特に心に残っていて、もう少しその生き方の背景みたいなものが知りたかったなと思った。

成長するに連れて自分の心に余裕が出てくるのは、「怒り」と「わかるよ」が表裏一体になってくるからなんだよなと思う。

どうにもならないことも、理解できてしまう。


私は山梨と長野県の県境に住んでいて、普段映画を見に行くときは片道一時間かけて東京・甲府方面にあるイオンモールへ行く。

でも今回は、岡谷や諏訪周辺が舞台ということもあって、初めて岡谷のスカラ座に行ってみた。イオンモールとは反対方向へ一時間。

諏訪市にはたまに行くけれど、その先の岡谷市にはあまり馴染みがないので、スカラ座には行ったことがなかったが、なぜ今まで行かなかったのかと後悔するくらい、味のある素敵な場所だった。

TOHOシネマズみたいなところよりスクリーンは小さいけれど、落ち着いた雰囲気でゆっくり楽しめた。

映画の中では諏訪湖周辺のよく知っている風景もたくさん出てきて、私は改めて諏訪地域が好きなんだなあということを思った。

映画が終わった後に、アップルミュージックで怪物のサントラを検索して聴きながら運転をして帰路についた。(最近映画を観た帰りによくやるが、現代的な贅沢だなあと思う。)

車を停めていたところも、映画の中で食料品売場が登場するイルフプラザという建物だ。

ここから運転をしていると、さっき観ていた世界と今がリンクして、いつまでも映画が続いているようだった。

ここからも諏訪湖は近いのだけれど、一番馴染みのある、上諏訪の遊覧船が発着する湖畔に行ってみようと思った。

午前中はつよい雨が降っていたけれど、雨は既に上がり、暑くもなく寒くもなく、心地よい風が吹いていた。

諏訪湖に来るといつも、近くで見るとあまり綺麗じゃないんだよなと思う。それもすごく現実的だ。

湖畔を眺めながら、サントラを聴きながら映画を反芻する。

夏は特に、湖面に藻が浮かんでくる。しつこいが、綺麗じゃないんだけど、今観てきた映画と続く余韻と音楽とこの世界に浸れることが、すごくすごく美しいなと、こんな贅沢がこの世にあるのだろうかという気分になる。

高級とか希少とかそういうことじゃなくても、好きなものに浸れるということ、わからないことを考えるということ、この瞬間にそれを選択できる自由があること

世界、わるくないと思う。

ある種最上級の幸せを今、体感しているなあと思う。


映画を観てから数日、つい『怪物』について、あの場面はどういうことだったのか、他の人はどう思っているのかなどということを、答えみたいなものを探してしまう。情報は、無限のように出てくる。

それらを観ながら、納得することもあるけれど、自分が体感して考えて、自分が感じた美しさを超える気持ちにはならないし、それぞれが思った通りでいいんだよなと思う。

最近生きていく上で、答えみたいなものがたくさんあることや、それに頼ってしまうことについて、終わらない恐怖みたいなものも感じていたけど、たぶんそんなに怖いことではない。

自分は、人はどこかに着地していくし、何かを奪われているようで、考える力はちゃんと残っていると思う。

こういうふうに映画を観ることで、そのことを、確認しているのかもしれない。

たぶんまだ、大丈夫。



スカラ座にはQRコードが展示してあるのだが、映画「怪物」ロケ地 特集サイトというものがある。

映画「怪物」は長野県諏訪地域を舞台(メインロケ地)に撮影が行われました。当サイトでは映画「怪物」の舞台となった信州・諏訪地域の厳選ロケ地の紹介、あの「世界の是枝監督」が大好物となった諏訪地域グルメスポットの紹介、「怪物」イベント情報など映画のロケ地となった地元でしか手に入らないとっておきの情報をお届けします。
(随時新着情報を更新します)

帰ってから気がついたのだが、映画館の近くには「ロケ地ミュージアム」というものもあるのだ。気づいていたら寄ったのに…。

これはもう、チラシを作成して『怪物』を観る人全員に配ってもいいんじゃないだろうかと思った。

でももう一度観たいのでまた行こうと思う。

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