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#27 地方都市の新たな魅力に出会う ブロンプトンとローカル線の旅/13回目の3.11 陸前の海と杜の都へ③

2024年の早春、ブロンプトンを連れて、宮城県への旅。初日は女川まで、強風の中、ポタリングと仙石線・石巻線の旅、さらに仙台で酒場放浪記。〆についついラーメン食べてしまい、胃もたれが少々しんどい朝を迎えました。(旅行日 2024年3月15日夜〜17日)

▼ この旅のここまでの記録はこちらです。この記事を含めいずれもnote公式マガジン「#旅のフォトアルバム 記事まとめ」に、加えて#25は「おでかけ 記事まとめ」に、また本記事#27は「国内旅行 記事まとめ」に取り上げて頂きました。ありがとうございます。

🔲 3月17日(2日目)

◆ かつての暮らしを懐しむ

3月17日早朝。地震で目が覚めました。
大きな揺れではありませんでしたが、最近では、元旦の能登半島地震で、帰省していた信州南部の実家もかなり揺れ、その後、地震の少ない京都でも局地的な揺れが起きたりしており、今度は何事か、と身構えてしまいます。あとでニュースを見ると、福島県沖でM5.4の地震が発生したとのこと。
カーテンを開けると空は高曇り。

今日は、特に予定も決めず、以前暮らしていた時のように、仙台市内をあちこち歩いて過ごそうと考えていました。

8時少し前に仙台駅前のホテルをチェックアウトし、荷物を預かって貰い、サコッシュひとつの軽装で、北へ向かってブロンプトンで走り出しました。
仙台東照宮の前を通り過ぎます。ここへは時々、商売繁盛祈願に来ていたものです。
この先は丘陵地。古くからの住宅地と、東北薬科大、東北高校などが小松島沼に面して立地しています。それをかすめていく生活道路はかつての通勤路でもあり、記憶の断片を繋ぎ合わせながら、台原森林公園へ向かいました。
彼方には泉ヶ岳。

2回目の仙台勤務時、わたしはこの北の八乙女に住んでいました。休日に市内へ出かけるときは、運動不足解消のため、よく台原森林公園を縦断して、地下鉄で3駅ほどの距離を歩いていたものです。元々、子供の頃に木曽谷で育ったためか、木立の中は気持ちが落ち着くのです。
杜の都の異名は、定禅寺通りや青葉通りからきているのだと思うけれど、このような森や、さらに北にある七北田公園のような環境が身近にある暮らしは、今思えば得難いものでした。

ブロンプトンで下り基調の砂利道を走ると、反対側の門まではほんの一足。

その先は、中心市街地と泉中央を結ぶ幹線道路を走ります。昔、休日の朝によくきたマクドナルドがまだ現在でした。朝食を食べながら、一番町のアップルストアで買ったMac Book Proを開き、水中写真の編集などしていたことが思い出されます。懐かしくて、つい脚を止め、13年ぶりで朝ごはんを食べに入店。
周囲への配慮なく品性のない過ごし方をしている客のいない、居心地の良い店だな、という印象。昔もこうだったのに、自分がそのありがたみを感じていなかったのでしょうか。

ホテルに預けてきた荷物の中に自転車用のチェーンキーを入れたままだったので、百均を探して安いカギを調達したりしながら、かつて暮らしていた懐かしいエリアをポタポタと走ります。当時はあまり感じなかったのだけど、日常生活に必要な施設がコンパクトにまとまった、暮らしやすいエリアだ。道ゆく人たちも品がいい。
ここに部屋を借りたのは、地下鉄駅に近く、故に仙台駅へも至便で、さらに東北道の泉中央インターへもすぐと、東北各地を駆けずり回るには便利な立地だったからですが、歳月を経て訪れると、住環境としての雰囲気の良さを感じます。
このエリアが歓声に包まれるのは、ベガルタ仙台のホームゲームがユアテックスタジアムで開催される週末の午後。当時はベガルタもJ1にいました。

▲ ユアテックスタジアム仙台

さらに、泉中央のあたりを一回り。センスの良い生活雑貨店やカフェが集まった専門店ビル「泉中央セルバ」などで、このエリアでの暮らしを思い出しながら。

また仙台で暮らすのもいいな、と思います。
小さくてもよく走ってくれるクルマを買って、週末には自転車とテント積んで東北各地へソロキャンへ行ったり。冬には金曜の晩から盛岡へ行き、翌日は安比で一滑りして帰ってくるとか。
必要なものは公共交通機関や自転車で行ける範囲にまとまった、コンパクトな大都会。海沿いなので夏も冬も気候は穏やか。
…などとお気楽なことを書いていますが、反面、今朝も一揺れしたように、地震の多さは関西の比ではない。わたしは東日本大震災の直前に転勤で仙台を離れたのですが、在任中には岩手・宮城内陸地震が発生し、その後もしばらくは休日や深夜に余震で緊急出勤を余儀なくされたものでした。

◆ 早春の祝祭

幹線道路を走って、市街地へ戻ります。
北仙台駅の近くから、家具の街などを一巡りして、この季節は裸木が並ぶ宮城県庁前の銀杏並木を通り、勾当台公園へ。
すると、多くのテントが出て、賑やかです。

ちょうど、農水省が主催する復興イベント「食べて応援しよう!in 仙台」というのが開催されており、岩手、宮城、福島の三県から、多くの事業者が出店して、地域の特産品やB級グルメを販売していました。こういうウィークエンドマーケットのような催しは大好きなので、駐輪場にプロンプトンを停め、会場へ入ります。

真っ先に目に止まったのが、福島県田村市のクラフトビール。沿岸部の町々からは牡蠣や海産物。さらに豚串やら何やら…
これはもう、真っ昼間から呑むしかありません。
必然的に、今日のポタリングはこれにて打止め。

https://www.maff.go.jp/tohoku/syokuryou/syokusan/attach/pdf/news_ltr-29.pdf

ホップの香り高い濃厚なビールを片手に、まず牡蠣の串焼き。続いて豚串を頬張っていると、会場の奥の方に設けられたステージから「花は咲く」を歌う声が聞こえてきました。
あの日から何万人もの人が口ずさみ、涙したであろう、そしていつまでも歌い継がれるであろう名曲。
アイドル風の少女3人組(みちのく仙台ORI姫隊というのだそうです)に挟まれて、ステージの中央にはゆるキャラの着ぐるみ。その両脇ではORI姫隊よりすこし年嵩の女性2人が歌っていました。

真ん中にいるのは、福島県浪江町のゆるキャラ「うけどん」。浪江町を流れる請戸川という、桜並木に彩られた川がその名の由来。請戸川を遡上する鮭の帽子をかぶり、大堀相馬焼の丼に乗っています。脇を固める女性2人は、浪江で活動するsatoko&satomi という、地元出身のユニットだそうです。学年に1人か2人いる、噂の可愛い子といった感じ。
satomiちゃんは、時々涙を拭いながら、一生懸命に歌っていました。健気過ぎて、抱きしめたくなってしまう。向こうは絶対イヤだろうけど。

福島原発事故で町全体に避難指示が発出された浪江町。震災前に2万2千人だった人口は、避難指示が解除された今日も、その十分の一に留まっています。長い避難生活の間に、避難先で生活の基盤を確立した人たちも少なくなく、町の調査によると避難した町民の半数が「戻るつもりはない」と回答しているとのこと。廃炉作業も未だ先が見えず、13年を経て今なお厳しい現実が目の前にあります。
そんな中で彼女たちは、故郷の未来のため、暗闇の中に例え小さな灯りであっても点そうと必死なのでしょう。と言いますか、彼女たちは、既に一筋の希望の光になり、人々が前を向く力になっていると思います。

浪江だけではありません。震災特需がひと段落した後、東北の経済は落ち込んでいると聞きます。賃金上昇とインフレの好循環とか、株価史上最高値更新とかいうけれど、その恩恵が全国の隅々にまで波及するにはどれくらいかかることでしょうか。

そのような中、この小さな祝祭のようなマルシェに集うある人は、厳しい現実をひと時忘れたくてここにいるのかもしれません。ある人は互いの連帯を確かめ、共に前を向いて歩いていこうとしているのかもしれません。またある人は、愛する土地のことを少しでも知ってほしいという想いで、声を枯らし笑顔で来場者に呼びかけ続けているのかもしれません。

それにひきかえ自分はどうか。社会人としての自分を育ててくれたと言っても過言ではない東北の地に、まだ何も恩返しができていない…
この場所の空気に実家に戻ったような居心地の良さを覚えながらも、そんなことを痛感してもいました、

夜9時近く。京都へ戻り、阪急嵐山駅前でプロンプトンを組み立て、冷たい比叡下ろしの中、渡月橋を渡ります。
束の間の懐かしく暖かな夢から醒めたような想いが、胸の底にありました。

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最後までお読み頂き、ありがとうございました。これからも、ブロンプトンを連れて地方都市やローカル線を訪ねていきたいと思います。
これまでのローカル線とブロンプトンの旅、こちらへまとめております。

わたしは、2020年に勤務先を早期退職した後、関東から京都へ地方移住(?)しました。noteでは主に旅の記録を綴っており、ロードバイクで北海道一周した記録や、もう一つの趣味であるスキューバダイビング旅行の記録、また海外旅行のことなども書いていきます。宜しければ↓こちらもご笑覧下さい。

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