好きな自分を殺さないために

情景の温もりは浸っていたくなる。
肩まで浸かったぬるま湯のように、少し立ち上がっては直ぐに外の寒さに驚いて体を沈めたくなってしまう。
実家に帰る電車で田んぼが増えてくると、どこか安心している自分がいる。
窓の外を見れば、開けた視界と都会より高く感じる青空、きっと建物の背がすべて低いせいだろう。
田んぼ道の用水路なんかには子供がいて、もしかしたら過去の自分もいるんじゃないかと思い、どこかで探している。
いい加減ふるさと離れしなきゃだめだと思う。
僕はものへの愛着が人一倍強い。
それは土地も同じで、故郷に帰ると、晴れた草原で昼寝をして、そのまま消えてしまいたくなる。
僕は生まれ変わったら草原になって、秋には黄金色の実を付けて、風の形になびいていたい。
僕はそういう感性がある。
どこか現実離れしたような、生きていくために捨てなければいけない、まったりとしたぬるま湯のような感性がある。
厄介なのは、僕自身この感覚が好きということだ。
好きな歌を口ずさみながら、良く晴れた日に街を歩いて、そこに生きる人々の軌跡を感じると、胸がいっぱいになって満足になる。
そういう時間が僕の人生にはたくさんあってほしいと思う。
僕はこれを失ってきている。
日常の中、思わず書き留めておきたいことは山ほどあるのに、忘れてしまってもいいかと、どこかで考えてしまっている。

諦めに近いのかもしれない。
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。」
方丈記の言葉がずっと頭の片隅にある。
川の流れは絶え間なく続いていて、だけどそこにある水は常に変わり続けている。
無常感と言ったほうがいいかもしれない。
自分が残さずとも誰かがきっと言葉に起こしてくれる、その人の文章を探すほうが楽だし、僕よりも芯を食ったことを言ってくれる。
そんな風に思ってしまっている所がある。
そういった生き方では自分が納得できないことは僕自身が一番わかっているのに、やめようとしない。
僕は生み出したいんだ。
認められたいと考えてしまっている。
誰に?それがわからない。
「あなたの文章を読むために私は生まれてきたんだと思います」とか「あなたはきっと私と同じ心を持っている」なんて、言われたらどんなにうれしいか。」
承認欲求を言葉にすることは恥ずかしい。
だけど、僕は僕の文章で命を映したい。
そういう思いがこのnoteを始めたころからある。
生きずらさから始めたこの書きものも、今では生活の一部になっている。
最近は、自分の世界がどんどん広がっていて、息がつまるような気持ちもなくってきた。
「ほんとに辛かったよな、生きててくれてありがとう」って過去の自分に肩を組んで笑えるよう生きていきたい。
僕は自分が好きだから、自分をもっと好きになれるような生き方を見つけたい。

僕は優しい話を書きたい。
僕と似た感性の人がその本を肌身離さず持ち歩きたくなるような素晴らしい本、おもわず涙が溢れて生きていることが嬉しくなってしまうような、温かくて優しい話。
僕は書かなければいけない。
だって、僕はそうやって生きていきたいんだし、そうじゃなければ死んでしまうからだ。
自分を殺すことは、好きな人を殺すことと同じだ。
人生は誰一人として殺してはいけない、その中には自分自身も入っているはずだ。

久しぶりに何かを書いてて、夜が更けてきた。
今日は晴れるといい。

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