見出し画像

命の次に大切なものとは?

”絶望が死に至る病なら命の次に大切なものは希望である”

皆さんは命の次に大切なものって何だと思いますか?

空気とか水とか食べ物とか・・・・。

何でもいいのですが、私は希望だと思います。

希望は絶望の淵から掬い上げてくれるたった一つの方法であり、儚き夢を見る方法でもあります。

生きる意味

私は生まれてから27年間、ずっと何の為に生きているのかを考えて歩んできました

膨大な思索の中、私は一つの答えに辿り着いた。

それは”無意味”だというです。

これから先、私たちには必ず死が訪れます。

もっと言ってしまえば、50億年後の太陽系は太陽の膨張によって爆発し消え去ってしまうと言われているので、私たちがどう足掻こうが、紬繋いだ子々孫々でさえもいつかは朽ち果ててしまいます。

テクノロジーが幾ら進んでも死すべき瞬間が少し遅くなるだけです。

そして、私たちは死んだら”無”になります。

全てが闇に包まれ誰もいない、音もない、色彩もない、何もない空間に閉じ込められ私たちが生まれる前の世界(この世に生を授かる前)に戻るのです。

だから何の為に生きるのか?という問いは無意味であり、この世に生きる事は意味を成していないと考えるようになりました。

小さな希望


とは言え、私は今も生きて畳の仕事を頑張っています。1分、1秒、刹那の瞬間も無駄にする事なく、こうしてブログを書き綴っているのです。

これらは私の言っている事と矛盾していますよね。

この世に生きる意味が無いなら早く死んだ方がいいし、1秒も無駄にしない完璧な効率化は、今すぐ死ぬ事なのですから早く無に帰してあげた方がいいはずです。

では、なぜそうしないか。

嫌だからです。

もっと生きてやりたい事があるし、好きな小説や続編が気になるアニメも見たい。友達と飲みにも行きたいし、デートもしたい。

つまり我儘で私は生きているのです。

アレがしたい!コレがしたい!その小さな希望の集合体は、大きな我儘になって私を生かしています。

生きる事は小さな希望を沢山集める事であり、我儘な事なんだと私は思います。

謙虚に生きる


我儘な人間はウザいし嫌われます。

皆んなが焼肉行こうぜ!おー!いいね!って大合唱している中、一人だけ「寿司食いてぇ」と言う奴は、普通にムカつきます。

だったら一人で食ってろ!って話です。

ただ、そこに謙虚さがあったらどうでしょう。

申し訳ないけど・・・。肉より寿司が食べたいんだよね・・・とか、寿司もある焼肉屋(ミスターバーベキューなど)に行きません?とか、宗教的に肉が食えないんだよね(嘘)・・・・だったら、なんか許せますよね。

謙虚で有れば、我儘言ったっていいし、自分の行きたいところを主張したっていいと私は思います。

少し話が逸れますが、最近は正論を言って論破するのが流行っていますよね。

正論って客観的事実を論じる事だと思いますが、時に客観的事実は人間の尊厳を踏み躙る行為になる可能性もあります。

例えば皇室の問題。

人権派と呼ばれる方は皇室の方々の人権問題に関して大きな声を挙げますが、日本人の中には皇室制度をアイデンティティの一部にしている人達も一定多数存在します。

「人間の尊厳は不可侵である」

これは哲学者カントの言葉ですが、擬えて言えばアイデンティティを傷つける恐れのある発言は尊厳を侵した、と言えるのではないでしょうか。

とはいえ、私は何もアイデンティティに関わる問題を論じるな!というつもりはありません。

先ほどから述べている通り、主張したい事があるなら主張すればいいと思います。

ただ、客観的事実を論じる場合は謙虚に論じるべきだと思います。

仮に人権派の方々が言っている事が客観的事実であったとしても、謙虚さが無ければ尊厳を踏み躙る言論になってしまうのです。

これは人生においても同じ事が言えます。

私たちが生きているという事は少なからず誰かに迷惑をかけて生きているはずです。

「私は誰にも迷惑はかけていない」と、もし謙虚でない生き方をする様であれば、迷惑を通り越して尊厳を傷つけたり、他人の命を奪ったりする可能性だってあります。(高齢者の車の事故が良い例かもしれません)

謙虚さはそれだけ大切なことなのです。

感謝の気持ち


古来より日本人は感謝の気持ちを大切にして生きてきました。

山には山の神、川には川の神、お米にはお米の神様と、あらゆるものに神様が宿っていて、神様から頂くものを恵みとし、感謝してきたのです。

とはいえ、普通に生きていると感謝の気持ちとは難しい気持ちだなと感じます。

例えば、私たちが仕事をしてお金を貰う事は報酬。つまり報いが発生します。

報酬が貰えるから感謝するのであって、仕事をしたのにも関わらず報酬が無ければ、感謝しないどころか「お金払え!」と怒鳴りつけに行く事になるでしょう。

つまり私たちが生きている社会において感謝とは、報いがあって初めて感謝になるわけです。

では、親が子に尽くす事は何の報いがあるのでしょうか。友が友に尽くす事は何の報いがあるのでしょうか。愛する人に尽くす事は何の報いがあるのでしょうか。

報われるかも分からない事に尽くすのは馬鹿じゃないですか?

この様な馬鹿な行為を世間では愛と呼びます。

つまり、愛とは恵みです。

神様って気まぐれですから、その年によって作物を与えてくれるかどうかわかりません。

収穫が少ない年に神様に対して激怒する人がいないのと同じで、私たちに何の報いが無かったとしてもただひたすらに感謝する事が、愛なのだと思います。

もし全人類が報われない愛に感謝の気持ちを持つ事が出来れば、世界は平和になることでしょう。

現実は難しいですが・・・。

以上です。読んでいただきありがとうございました。

古文漢文の授業不要論は、日本社会が貧しくなってきた証拠

▼ブログ:RushArtisan


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?