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「震災クロニクル」あの日あのときを感じる

東日本大震災時福島での事を細かに当時の心情を描いているnoteに出会った。
fal-cipal(ファルシバル)さんの「震災クロニクル」である。
https://note.mu/falcipal/m/m69b9562fd49b

震災時に体育館でカレーの販売があった事を伝えている、それは事実でありそれ以外にも原発事故現場周辺避難者へ物販が恥ずかしげも行なっていたのが福島市である。(そのカレー屋は私の知り合いであり「バンバン売れて、米がなくなりルーだけでも売れると私の前で言い放ったので激昂し「商売人がこんな時に恥ずかしくないのか!」その後私の前から消え去った、また子供にオモチャを100均から購入し五百円で販売している輩も現れたりと優しさなどとは程遠い場所であった。

あの日の前後の心情を赤裸々に伝えてくれている、ぜひ購読し彼を応援してほしい。同じ福島で同情したからではない、災害緊急時を正直にありのままを伝えてくれているからであり、今後の震災時の教訓になる真実がそこに描かれているからです。あのときを知る者として、苦悩の心情に涙して読ませていただいている。

当時私も福島県福島市で地震と原発事故に遭遇した。
同じように震災時の国や東電、行政機関などに怒りを覚え、さらにそこに住む人々の考えや行動にも驚くような事を目にした。
何よりも信じていたものが簡単に崩れ去った、災害時のパニック状態でも自らの判断で動けない人が多かった事に驚嘆した。
もともと反原発でもなければ運動なども皆無の私たち家族は、原発事故後に自分で調べたり、全国の友人から情報をいただきながら、自主避難を決断した。
当時は自主避難など福島を去る人を攻撃する人が沢山いてこう言われた・・・
「福島を捨てるのか!」

この言葉には避難を自分で決断できない輩としか感じられなかった、なぜなら普段から福島をボロクソ言っていた連中に限って罵声を浴びせるようにこの言葉を使っていた。
一旦離れて娘の健康を考えたかった、現場を離れて冷静に今後を考えたかっただけである、その時に放射能から逃れるには離れるしかなかっただけである。
避難当初は親戚や友人からも激しい言葉で恫喝もされている・・・命を守りたいだけなのに。
「自分たちだけ」とかも言われた・・・・悲しかった事を今でも思い出す。

情報は中にいると正しく見れない受け取れない、離れてみる事で知り得たことが沢山あった。中にいるとニュースなど情報も錯綜、噂話だけが先行し正確には情報を精査することすら難しくなる。洗脳も簡単な状況になっている事を理解した。
福島には国がすぐ動き、出来るだけ避難させないような対策を3月22日は全県で行い始めた。
なんてことはない、行政の消滅を防ぐ、原発は安全から放射能は安全へ切り替えられたスピードは早かった。国も行政も守ってはくれなかったのである・・・・。

その後内部被ばくの問題や子供の生活環境を考慮し、移住という引越しを決断して今の生活になっています。
あれから8年を迎えようとしていますが、友人も親戚や妻の両親兄弟も「初期避難・引越しは正しかったね」と言われるように変化している。