草莽庵(天誅組終焉の地)

東吉野村で最期を遂げた幕末の志士、天誅組(天忠組)に関しての記事です。 父である阪本基…

草莽庵(天誅組終焉の地)

東吉野村で最期を遂げた幕末の志士、天誅組(天忠組)に関しての記事です。 父である阪本基義の生家が天誅組とアートのギャラリー「草莽庵」として2024年3月24日オープンしました。 奈良県吉野郡東吉野村狭戸382

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記事一覧

7/27大和八木札の辻歴史塾「松本奎堂・池内蔵太の新事実~江州大津での天誅の関与」

2024年7月27日(土)大和八木札の辻歴史塾に2回目に参加してきました。 講師は京都女子大学・大谷大学非常勤講師の中村武生先生。 前回の内容はこちら。 文久3年(1863…

7/6東吉野村天誅組さきがけの道ウォーキング

2024年7月6日(土)東吉野村主催の天誅組さきがけの道ウォーキングが開催されました。 今回かなり多数の申し込みがあり、急遽3グループ時間差でのスタートとなりました。 そ…

6/15長屋門さきがけ塾 講談「天誅組」

2024年6月15日、五條市立民族資料館が主催されている「長屋門さきがけ塾」の2回目に行ってきました。 今回は講談師 四代目 玉田玉秀斎さんの講談「天誅組」でした。 前半…

5/25大和八木札の辻歴史塾「天誅組以前の中山忠光~長州毛利家はどう位置付けたか」

大和八木札の辻歴史塾に行かせていただきました。 講師は京都女子大学・大谷大学非常勤講師の中村武生先生。 全6回、奇数月第4土曜日に開催されます。 こちらのチラシでは…

5/18長屋門さきがけ塾「高野町石道と九度山」

2024年5月18日、「長屋門さきがけ塾」の講演会へ参加してきました。 講師 九度山町なか語り部の会 松島 洋さん テーマ「高野町石道と九度山」 主催 NPO法人維新の魁・…

さきがけ第73号に掲載されました

NPO法人維新の魁・天誅組が発行しておられる「さきがけ」第73号で原稿デビューさせていただきました。 天誅組に関わろうと思ったのは9月のことで、まだ何も知らない状態で…

11/4東吉野村天誅組第2回講演会③

2023年11月4日に東吉野村住民ホールで天誅組第2回講演会が開催されました。 オープニングまでのご紹介はこちら 岡本彰夫先生ご講演の様子はこちら そしてパネルディスカ…

11/4東吉野村天誅組第2回講演会②

2023年11月4日に東吉野村住民ホールで天誅組第2回講演会が開催されました。 オープニングまでの様子はこちら そして、岡本彰夫先生(奈良県立大学客員教授)によるご講演…

11/4東吉野村天誅組第2回講演会①

2023年11月4日に東吉野村住民ホールで天誅組第2回講演会が開催されました。 少し早く家を出発したので、父が「明治谷墓地にお参りをしたい」と言い、車を停めて歩いて行き…

天誅組大和義挙160年記念天誅組志士慰霊大法要

2023年11月5日東吉野村宝泉寺にて天誅組志士慰霊大法要が行われました。 宝泉寺は天誅組隊士、彦根藩士の菩提寺です。 小川ではその年(1863年)から、その他の地域は幕府の…

10/28天忠組義挙160年記念天忠組シンポジウムin大和第3段②

2023年10月28日(土)なら歴史芸術文化村で開催された天忠組シンポジウムin奈良の後半部分のレポートです。 前半はこちら パネルディスカッションの後、天忠組四市町村協…

10/28天忠組義挙160年記念天忠組シンポジウムin大和第3段①

2023年10月28日(土)なら歴史芸術文化村で天忠組シンポジウムin奈良が開催されました。 こちらのイベントは9/30の第1弾、10/9の第2弾に引き続き、第3段として締めくくられ…

鍋島米之助戦死地の碑(東吉野村天誅組紀行)

島村省吾捕縛地への道の入り口近くに鍋島米之助戦死地の碑があります。 東吉野村ガイドより引用 鍋島米之助は、高知県土佐郡潮江村(高知市潮江)に生まれる。 性質が温厚…

島村省吾捕縛の地(東吉野村天誅組紀行)

吉村虎太郎原えい処の少し手前に、島村省吾捕縛の地へ向かう道の入り口と、鍋島米之助戦死地の碑があります。 東吉野村ガイドより引用 島村省吾は高知県安芸郡羽根村(室…

吉村虎太郎原えい処(東吉野村天誅組紀行)

天誅組総裁の一人である吉村虎太郎原えい処に行ってきました。 東吉野村関連の本は「寅太郎」と記載されています。私は先日父にお見舞いのメッセージをくださった末裔の方…

鷲家口の戦い(東吉野村天誅組紀行)

東吉野村は天誅組終焉の地です。 鷲家口では激しい戦いが行われ、ここで最期を遂げた志士たちが多くいます。 先日、鷲家口の戦いが行われた場所を訪問しました。 父の著書…

7/27大和八木札の辻歴史塾「松本奎堂・池内蔵太の新事実~江州大津での天誅の関与」

2024年7月27日(土)大和八木札の辻歴史塾に2回目に参加してきました。 講師は京都女子大学・大谷大学非常勤講師の中村武生先生。 前回の内容はこちら。 文久3年(1863年)不平等条約破棄のため、徳川家茂(いえもち)は将軍として229年ぶりに上洛をした。 4/20に5/10を攘夷期限日とすることが決まった。(国交断絶の交渉を開始する日) 毛利家は暴走し、5/10~6/5まで5回にわたり異国を相手に下関戦争を起こした。 中山忠光は数回下関戦争に参加した。(公家で異国との

7/6東吉野村天誅組さきがけの道ウォーキング

2024年7月6日(土)東吉野村主催の天誅組さきがけの道ウォーキングが開催されました。 今回かなり多数の申し込みがあり、急遽3グループ時間差でのスタートとなりました。 それでも参加したいとのお声が多く、最終的には参加をお断りという状況だったそうです。 私は第一グループ、天誅組顕彰会会長桝本君孝さんのご案内でした。 まず、スタート地点の東吉野村役場は彦根藩本陣跡です。 そこから少し歩くと今の出合橋より少し手前に昔は橋があり(現出合橋は後に作られたもの)、そこを渡ったところ

6/15長屋門さきがけ塾 講談「天誅組」

2024年6月15日、五條市立民族資料館が主催されている「長屋門さきがけ塾」の2回目に行ってきました。 今回は講談師 四代目 玉田玉秀斎さんの講談「天誅組」でした。 前半は会場の皆さんが書いたアンケートを元にお話をしてくださいました。 玉田家は安倍晴明と菅原道真公の講談を代々されているそうで、それはそれで興味深いです。 150年の時に作られた保山耕一さんの天誅組の映像作品にも登場されていらっしゃったそうで、いろいろと繋がりました。 後半はアンケートに出てきたことも織り交ぜ

5/25大和八木札の辻歴史塾「天誅組以前の中山忠光~長州毛利家はどう位置付けたか」

大和八木札の辻歴史塾に行かせていただきました。 講師は京都女子大学・大谷大学非常勤講師の中村武生先生。 全6回、奇数月第4土曜日に開催されます。 こちらのチラシでは第4回までですが、第6回まであるそうです。 場所 八木札の辻交流館2階 奈良県橿原市北八木町2丁目1-1 会費 毎回1500円 こちらは旧旅籠で歴史的価値のある建物です。 1階は見学スペースになっており、講演会参加者以外にも多くの方が見学に訪れていました。 会場は満員状態。 参加者は奈良県外の方の方が多く、山

5/18長屋門さきがけ塾「高野町石道と九度山」

2024年5月18日、「長屋門さきがけ塾」の講演会へ参加してきました。 講師 九度山町なか語り部の会 松島 洋さん テーマ「高野町石道と九度山」 主催 NPO法人維新の魁・天誅組 場所 市立五條福祉センター2階(五條市立民族資料館よこ) 奈良県五條市新町3-3-1 五條市には天誅組に関する組織があり、機関誌「さきがけ」の発行や「さきがけ塾」、その他各種イベントや勉強会などを主催してくださっています。 会員になれば機関誌や各種案内が郵送されます。 私は機関誌「さきがけ」今年の

さきがけ第73号に掲載されました

NPO法人維新の魁・天誅組が発行しておられる「さきがけ」第73号で原稿デビューさせていただきました。 天誅組に関わろうと思ったのは9月のことで、まだ何も知らない状態です。 ですがありがたいことにお声がけいただきました。 今年は天誅組大和義挙160年という記念すべき年。 各地で様々なイベントが行われました。 今回の「さきがけ」はそれらについてまとめられた全10ページの特別号です。 本当にありがとうございます。 私は「生きる意味とは」という題名を付け、10/28に天理市で行わ

11/4東吉野村天誅組第2回講演会③

2023年11月4日に東吉野村住民ホールで天誅組第2回講演会が開催されました。 オープニングまでのご紹介はこちら 岡本彰夫先生ご講演の様子はこちら そしてパネルディスカッション 奈良県立大学客員教授 岡本彰夫氏 元東吉野村教育長 阪本基義氏(父) 天誅(忠)組記念館 館長 草村克彦氏 東吉野村天誅組顕彰会 会長 桝本君考氏 フリーアナウンサー 桑原征平氏(兼コーディネーター) 桑原さんのお声を聞いて、聞き馴染みがあると思い出しました。 テレビやラジオでご活躍です。 さす

11/4東吉野村天誅組第2回講演会②

2023年11月4日に東吉野村住民ホールで天誅組第2回講演会が開催されました。 オープニングまでの様子はこちら そして、岡本彰夫先生(奈良県立大学客員教授)によるご講演がありました。 テーマ「天誅組と私」 なぜ今天忠組を語らねばならないのか? (岡本先生は「忠」という字を使われています) 今、世界各地では戦争や争いが行われています。 人のせいにする人が多い中、国や人のために行動できる人はいるのか? 志を高く持ち、国民のために命を投げ出した天忠組から学ぶことがあるのではな

11/4東吉野村天誅組第2回講演会①

2023年11月4日に東吉野村住民ホールで天誅組第2回講演会が開催されました。 少し早く家を出発したので、父が「明治谷墓地にお参りをしたい」と言い、車を停めて歩いて行きました。 すると、桝本君孝東吉野村天誅組顕彰会会長ら数人が掃除をしてくださっていました。 先日も10/28の天理市でのイベント前に別の方が史跡を掃除してくださっていました。 いつも「天誅組をどう伝えていくのか?」ということが議論になりますが、終焉の地東吉野村にとって、まずは史跡を守り、弔い続けていくことが一番大

天誅組大和義挙160年記念天誅組志士慰霊大法要

2023年11月5日東吉野村宝泉寺にて天誅組志士慰霊大法要が行われました。 宝泉寺は天誅組隊士、彦根藩士の菩提寺です。 小川ではその年(1863年)から、その他の地域は幕府の目が光っていたので少し遅れて弔いが行われたそうです。(近くにいらっしゃった先生にお伺いしました) 大きな位牌は天誅組のもの。 宝泉寺裏手には彦根藩士2名のお墓があるそうです。 今年は天誅組大和義挙160年。 その間ずっと法要が行われていたことを、同じ村民として誇りに思います。 法要に参加して、天誅組が

10/28天忠組義挙160年記念天忠組シンポジウムin大和第3段②

2023年10月28日(土)なら歴史芸術文化村で開催された天忠組シンポジウムin奈良の後半部分のレポートです。 前半はこちら パネルディスカッションの後、天忠組四市町村協議会から父に感謝状をいただきました。贈呈は水本東吉野村長から。 体調不良でイベントを欠席してご迷惑をおかけしているのに、こんなに嬉しい舞台をご準備してくださり、本当にありがとうございます。 父は長年天誅組に人生をかけて取り組んできましたが、きっと今までやってきて良かったと心から感じたと思います。 その時

10/28天忠組義挙160年記念天忠組シンポジウムin大和第3段①

2023年10月28日(土)なら歴史芸術文化村で天忠組シンポジウムin奈良が開催されました。 こちらのイベントは9/30の第1弾、10/9の第2弾に引き続き、第3段として締めくくられました。 開会あいさつ 天忠組市町村連携協議会 会長 水本 実 天誅踊披露 踊り手 五條市職員有志 音頭  大和の郷土芸能実践研究家 小関 吉浩 基調講演 奈良女子大学教授 武藤 康弘「奥吉野の天誅踊」 パネルディスカッション 「天誅踊について」 コーディネーター 奈良県立大学客員教授 岡

鍋島米之助戦死地の碑(東吉野村天誅組紀行)

島村省吾捕縛地への道の入り口近くに鍋島米之助戦死地の碑があります。 東吉野村ガイドより引用 鍋島米之助は、高知県土佐郡潮江村(高知市潮江)に生まれる。 性質が温厚で口数はあまり多くないが、事にあたっては談論風発、あたりを圧する憤慨義節の勤王の志があった。 同郷の同志楠目清馬(桜井市倉橋で自刃)と意気投合して常に行動をともにした。 文久2年(1862)脱藩して京都に入り、諸藩の志士と交わり尊王攘夷運動に身を投じた。 同3年8月、吉村寅太郎らが大和に挙兵すると、那須信吾、森下

島村省吾捕縛の地(東吉野村天誅組紀行)

吉村虎太郎原えい処の少し手前に、島村省吾捕縛の地へ向かう道の入り口と、鍋島米之助戦死地の碑があります。 東吉野村ガイドより引用 島村省吾は高知県安芸郡羽根村(室戸市)の人。 安政6年(1859)、15歳で京都に出て土佐藩邸に勤めていた。 文久3年(1863)8月、多感な青年省吾は、時代の風雲を感じて同志とともに天誅組の大和挙兵に参加して尊王攘夷の先鋒となった。 省吾は参戦した土佐出身隊士の中で最年少であった。 9月24日の夜、鷲家口の激戦において、忠光の本隊とともに鷲家口を

吉村虎太郎原えい処(東吉野村天誅組紀行)

天誅組総裁の一人である吉村虎太郎原えい処に行ってきました。 東吉野村関連の本は「寅太郎」と記載されています。私は先日父にお見舞いのメッセージをくださった末裔の方が「虎太郎」という漢字を使われていたので、そちらを使用しています。 吉村寅太郎の最期(「草莽ノ記」より)  本隊の後から傷病者が足ノ郷峠(東熊野街道)を下ってきた。この中には吉村寅太郎の組、松本奎堂、藤本鉄石の組、安岡嘉助の組などが前後して進んできた。戦闘能力の乏しい傷病者の組は、行路を変更して伊勢方面をめざした

鷲家口の戦い(東吉野村天誅組紀行)

東吉野村は天誅組終焉の地です。 鷲家口では激しい戦いが行われ、ここで最期を遂げた志士たちが多くいます。 先日、鷲家口の戦いが行われた場所を訪問しました。 父の著書「草莽ノ記」を引用し、私が撮影した写真を紹介します。 鷲家口の死闘  主将中山忠光ら天誅組の一行は、足ノ郷峠(東熊野街道)を越えて、東吉野村鷲家口に近い「五本桜」(村道小川~武木線)についた。傷病の隊士の組は、本隊よりさらにおくれていた。  文久3年9月24日(新暦11月5日)雨のそぼふる夕暮れであった。  五本