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鷲家口の戦い(東吉野村天誅組紀行)
東吉野村は天誅組終焉の地です。
鷲家口では激しい戦いが行われ、ここで最期を遂げた志士たちが多くいます。
先日、鷲家口の戦いが行われた場所を訪問しました。
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父の著書「草莽ノ記」を引用し、私が撮影した写真を紹介します。
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鷲家口の死闘
主将中山忠光ら天誅組の一行は、足ノ郷峠(東熊野街道)を越えて、東吉野村鷲家口に近い「五本桜」(村道小川~武木線)についた。傷病の隊士の組は、本隊よりさらにおくれていた。
文久3年9月24日(新暦11月5日)雨のそぼふる夕暮れであった。
五本桜には茶店が一軒あった。天誅組は、追討軍の命令をうけて「五本桜」にきていた物見の村人2人を捕らえて、鷲家口のようすを聞きただした。すると、鷲家口には紀州藩と藤堂藩の追討軍が来て、土地の人々をかり集め、篝火をたいて要所を固めているという。
三々五々、バラバラになって村人を近くの木にしばりつけ軍議を開いた。
天誅組の軍議は壮絶な作戦である。「先ず決死隊を編成する。決死隊は先兵となって敵陣へ斬り込む。その間隙をついて忠光を囲んだ旗本陣は街道をかけぬける。また、後陣の傷病者は、敵が応戦に気を取られている間に裏山に回って宇陀方面に脱出する」であった。
決死隊の活躍
天誅組の一行は、主将中山忠光の脱出を援護するため、那須信吾を隊長として、植村定七、宍戸弥四郎、林豹吉郎、鍋島米之助と、残りの一人は側役の者名所繁馬(彦根藩書簡)の6名の決死隊を編成した。
捕らえられた村人を道案内として、決死隊は烏原の三畝峠の下手より上出垣内(小川小学校の川向い)におりてきた。今の中央公民館の下にかかっていた橋を渡り、宝泉寺の前を進み、出店坂(小川小学校~いかり屋食堂)より彦根藩脇本陣のある碇屋喜助宅(立住商店)へ突入したので、彦根勢は大混乱におちいった。
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先頭の植村定七(大和)は、小川小学校裏の小橋のところで彦根藩の歩兵頭の伊藤弥左衛門を一刀のもとにたおした。彦根勢はこの襲撃を受けて混乱を極め、銃を乱射してきた。植村は、敵の銃弾を受けあえない最期をとげた。続く5人はまっしぐらに出店坂をかけおりた。鍋島米之助(土佐)は、敵の銃弾を受けたが、ひるむことなく、刀を振り回して敵陣に突入した。
彦根勢は家の軒下などから発砲して応戦した。
このとき、今の豊田菓子店前付近の路上で天誅組隊士2人が撃ちたおされた。地元の言伝えによると、2人は天保高殿と西田仁兵衛だとあるが事実であるか定かではない。
隊長の那須信吾(土佐)は、碇屋前の敵の陣所をなんなく突破して、四条屋儀兵宅(南呉服店)の前まで来たとき、彦根勢の武将大舘孫左衛門が行く手に立ちふさがった。
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信吾はこれを槍で突きたおすなり、息つく間もなく、群がる敵を突き立ててなぎたおして碇屋前までもどった。この時彦根兵の銃が火をふき、続く2弾、3弾で血だるまとなって最期をとげた。
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副隊長の宍戸弥四郎(刈谷)は、碇屋前、四条屋前を斬りぬけ、前北橋(千代橋)まで進み、敵と戦闘中に足をすべらせて川に転落した。すぐに立ち上がって向かい側の岩場をよじ登ろうとした時、彦根兵の銃弾を受けて川を血にそめながら戦死した。
弥四郎の遺体から「埋葬費」としたためて十両がでできたため、討ち取った彦根兵が郷里の寺に墓を建てて冥福を祈ったという。鷲家口の千代橋にある『宍戸弥四郎先生戦死の地』の碑は、昭和37年刈谷市によって再建されたものである。
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林豹吉郎(大和宇陀)は、紙屋重兵衛宅(蒲生宏宅)前に敵陣を見つけて斬り込んだ。豹吉郎の鋭い太刀先に敵陣はどっと崩れた。しかし、このとき不意の一弾が頭に命中して、豹吉郎はどっとその場に倒れて戦死した。
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出店坂で敵弾を受けた鍋島米之助(土佐)は、負傷に屈せず、次々に敵の陣所を切りぬけ鷲家谷まで進んだ。しかし、ついに力がつき道ばたの辰巳友七(西峰秀信宅)の納屋に入り休養していたが、次の朝発見されて藤堂藩兵の銃弾にたおれた。
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決死隊の撹乱戦法で敵勢がひるんだところを、主将中山忠光を中心とした本体は、足ノ郷道を下ってきて、彦根の本陣「福屋」(東吉野村役場)に突入してなんなく敵陣を撃破した。出合橋を駆け渡り「碇屋」にある陣所に殺到して、群がる敵をうちはらいつつ鷲家谷(山崎嘉則宅付近)まで進んだ。この間に味方は散りじりになって、忠光に従う者は17人になってしまっていた。この劣勢では敵の2陣を破ることはおぼつかない。運を天にまかせてひとまずここを落ちのび、他目の再挙を期して、大坂の長州藩屋敷を再会の場所と決め、それぞれ各自で脱出することにした。
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忠光と行動をともにしたのは、上田宗児、伊吹周吉、島波間、半田門吉、門吉の家来山口松蔵、安積(あさか)の家来萬吉の6人だった。
中山忠光一行は、昼は隠れて夜に行動しながら、三茶屋に出て、三輪山から耳成山を潜行し、大和高田を通り、竹之内峠を越えて河内国に入り、9月27日、ようやく大坂の長州藩邸にたどりついた。
著者の言葉
平和な生活の中に突然おきた大騒動に、村人たちは大変混乱したことだろう。しかし、追討軍が引き上げ、天誅組の決起の目的や行動を知るにおよんで、同情から尊敬にかわり、犠牲になった隊士の墓標を建てるなどしはじめた。それが、後の天誅組顕彰運動へと引きつがれていったのである。
東吉野村は美しい自然に囲まれた静かな村です。
このような場所で激戦が繰り広げられていたなんて信じられません。
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