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5/18長屋門さきがけ塾「高野町石道と九度山」

2024年5月18日、「長屋門さきがけ塾」の講演会へ参加してきました。
講師 九度山町なか語り部の会 松島 洋さん
テーマ「高野町石道と九度山」
主催 NPO法人維新の魁・天誅組
場所 市立五條福祉センター2階(五條市立民族資料館よこ)
奈良県五條市新町3-3-1

五條市には天誅組に関する組織があり、機関誌「さきがけ」の発行や「さきがけ塾」、その他各種イベントや勉強会などを主催してくださっています。
会員になれば機関誌や各種案内が郵送されます。
私は機関誌「さきがけ」今年の1月号、4月号に寄稿させていただきました。

長らく関東に住んでいて天誅組初心者の私。
今回初めて五條市を訪問しました。

天誅組は五條代官所を襲撃し、その後すぐに京都の政変により逆賊として追われる身となりました。
五條市は「はじまりの地」、東吉野村は「終焉の地」です。

こちらの民族資料館は襲撃された後に作られた代官所の門がそのまま使われている、歴史的価値のある建物です。
スタッフの方が常駐され、天誅組展示見学の対応をされています。

五條出身の隊士
こちらのご子孫も草莽庵へお越しくださいました

九度山は真田幸村、真田昌幸が過ごした場所として有名で、紀州真田庵という施設もあります。
その紀州真田庵を管理されているのは天誅組三総裁の一人、藤本鉄石さんの従者である福浦元吉さんのご子孫です。
また、応援を要請されて高野山から天誅組に参加した者が数名います。

そんな前知識で今回の講演会に参加したのですが、もっと深い歴史の数々に驚きました。

松島 洋先生


九度山は馬の背のような形をしています。
町が岩でできているので、川の氾濫から守られたそうです。

平安時代、弘法大師が和泉の槇尾山施福寺で修行していましたが、紀の川(当時は吉野川という言い方)が氾濫して行けなかったそうです。
そこで弁財天から九度山に槙尾山の明神を祀ってはどうかというお告げがあり、弘法大師が月に9回お参りをしたので九度山と言われるようになったそうです。(諸説あり)

また、藤原道長は信心深く、金峯山寺や高野山に何度もお参りをしたそうです。
慈尊院には下乗石が残されていて、そこで馬を降りて歩いたそうです。
NHKのブラタモリでも下乗石が紹介されたそう。

1600年の関ヶ原の戦いで敗れた真田は九度山へ来ました。
高野山ではなく九度山へ来たのは高野山が寒いからとされているそうですが、妻や子なども一緒に来たので、女人禁制の高野山を避けたのではという裏話をお伺いしました。

また、陸奥宗光は9歳から15歳まで九度山に住んでおり、学問を学ぶために五條まで通っていたそうです。
その間に弟が亡くなり、九度山にお墓があるそうです。

陸奥宗光は江戸で坂本龍馬と行動を共にしたり、明治維新後に政府の一員として加わったり、ヨーロッパ留学を経て外務大臣になるなど、皆様ご存じの通りです。
このような歴史において重要な人物が多感な時期に九度山で過ごしたというお話に感銘を受けました。

松島先生は学校の教員を退職後、楽しいお話を交えながら多くの方を案内されているそうです。
東吉野村も天誅組史跡をご案内していますが、案内係が1人か2人という実態です。
中には道が険しい場所もあるので、若い者でご案内できる体制を作りたいと思いました。

今回はいろいろな方とゆっくりお話をさせていただいたのでまわれていませんが、五條市には天誅組の史跡がいくつかあります。
さきがけ塾はあと3回ほどありますので、またゆっくりと巡りたいと思います。
民族資料館にまず行かれますと、マップや資料がたくさんありますし、史跡巡りのアドバイスもしてくださいます。
草莽庵には五條市の方が多く来てくださっているので、東吉野村の方にも五條市のことを伝えていきたいです。

松島先生にご許可をいただきましたので、資料を添付させていただきます。

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