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5/25大和八木札の辻歴史塾「天誅組以前の中山忠光~長州毛利家はどう位置付けたか」

大和八木札の辻歴史塾に行かせていただきました。
講師は京都女子大学・大谷大学非常勤講師の中村武生先生。
全6回、奇数月第4土曜日に開催されます。
こちらのチラシでは第4回までですが、第6回まであるそうです。

場所 八木札の辻交流館2階
奈良県橿原市北八木町2丁目1-1
会費 毎回1500円

こちらは旧旅籠で歴史的価値のある建物です。
1階は見学スペースになっており、講演会参加者以外にも多くの方が見学に訪れていました。

会場は満員状態。
参加者は奈良県外の方の方が多く、山口県や岡山県、千葉県などからいらっしゃっており、驚きました。
今後参加されたい方は事前申し込みを早めにすることをおすすめします。

中村武生先生

天誅組の志士達は逆賊となってから、中山忠光を無事逃がすために様々な作戦を考え、命をかけました。
19歳の若き元公家ということしか分かっていませんでしたが、今回のご講演で中山忠光の人物像が分かったことは大きな収穫となりました。
(ご講演の内容が抜けていたり私が理解できていないところが多々ありますが、私の心に刻まれたことを中心にレポートします。間違いありましたらご指摘ください。)

中山忠光
1845年4月13日に誕生。
中山忠能(ただやす)の5男。
3男、4男は僧になっているそうですが、忠光はなっていません。
忠能は忠光に格別な思い入れがあったと思われます。

中山家は200石で本来政治には関与できない家柄だったそうですが、政治的には高い位置にいたそうです。
また、中山家から天皇に入内する者もおり、中山慶子は明治天皇の生母です。
慶子は忠能の次女で、忠光は同母弟です。

徳川家は長期政権でした。
様々な将軍がおり、将軍の政治力が弱くなると天皇を中心とした方がいいという声が高まったそうです。

忠光は公家という身分を捨て、下関へ行きました。
(後から質問すると、公家は京都にいないといけないので、京都から出るには公家を辞めないといけないそうです。)
天誅組志士達は脱藩しましたが、公家バージョンもあるの!!と驚きました。
下関へ行った後、下関戦争が始まり、忠光は元公家でありながらも戦争に参加したそうです。
これは他に類がないほど異例なことだそうです。

その後京都で公家の姉小路が殺害されたという大事件の知らせを聞き、京へ戻ったそうです。
しばらく中山家に戻るわけにはいかず、毛利家で過ごしたそうです。
先生曰く、忠光がいなくなった後に兵力が衰え、下関戦争敗北に影響を及ぼしたのでないかとのことです。
忠光は下関戦争敗北の知らせを聞き、また下関へ行こうとしたそうですが、まわりが阻止したそうです。

京都では吉村虎太郎など幕末の主要メンバーが何度も訪れ、忠光と話をしたそうです。

その後天誅組志士らと共に孝明天皇の大和行幸や天誅組の変へとつながっていきます。

山口県からお越しの方と雑談しました。
忠光は天誅組の変の後何とか下関へ行きますが後に殺害されます。
下関で過ごした期間は1年弱とのことです。
でも、子どもが後に生まれたので、志士達はただただ無念と思いながら亡くなったわけではないのかなと個人的に救われる気持ちでいます。

続きは次回詳しく聞けるそうです。
事前申し込みをすればビアガーデンでの二次会もあるとか?

天誅組の志士達が命がけで守った中山忠光は若くしてなかなかの人物だったということが分かりました。
お話を聞きながら、私の性格と忠光の性格が似ているなと感じました。
天誅組に参加した志士達もなかなかの人物が勢揃いしています。
天誅組について深く知れば知るほど、影響されやすい私はどうなるのだろう?と思います。
うちの父や母は忠光を心配した忠能と気持ちが重なるかもしれません。
志士達は忠光についてどう思っていたのか、また詳しく知りたいと思います。




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