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島村省吾捕縛の地(東吉野村天誅組紀行)

吉村虎太郎原えい処の少し手前に、島村省吾捕縛の地へ向かう道の入り口と、鍋島米之助戦死地の碑があります。

森下儀之助、幾馬兄弟について
島村省吾捕縛地へ向かう道の入り口
「草莽ノ記」著者 阪本基義
島村省吾捕縛地への道
山側から道路方向

東吉野村ガイドより引用
島村省吾は高知県安芸郡羽根村(室戸市)の人。
安政6年(1859)、15歳で京都に出て土佐藩邸に勤めていた。
文久3年(1863)8月、多感な青年省吾は、時代の風雲を感じて同志とともに天誅組の大和挙兵に参加して尊王攘夷の先鋒となった。
省吾は参戦した土佐出身隊士の中で最年少であった。
9月24日の夜、鷲家口の激戦において、忠光の本隊とともに鷲家口を切り抜けかなりの深傷を負ったため、鷲家谷の「一ノ谷」上方、伊勢街道の小名峠(こな)、清三郎の薪小屋で傷養生をしていたが、28日昼過ぎ紀州兵に捕らわれ、大庄屋辻四郎三郎のもとに一週間繋がれた。
省吾は刀一本と一両のほかは何も持っていなかったという。
後に京都に送られ、翌、元治元年2月16日、六角の獄舎で斬首された。
島村省吾の郷里、高知県室戸市羽根の船場の東、国道沿いに「贈正五位島村省吾君墓」と書いた自然石の碑が建っている。
裏面の撰文の末尾に「京華よろしと雖(いえど)も何ぞ故郷に如(し)かず、一帯の山万里の白洋」とある。

森下兄弟と島村省吾らはこの道を行きました。
当時の様子が色濃く残った道です。

看板そばの川


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