【地方から世界一を狙う農機具屋のプロフィール Part.1】生い立ち~農機具業界への転職

農機具の宅配レンタルをはじめてから色々な方と関わりを持つことが増え、「ひがしさんって何者なんですか?」と最近聞かれることが増えてきたのですが、元来説明が得意でない僕のせいか「聞いたけどよくわからん」と言われることも多いので、プロフィールをまとめました。

長いので書けた分からいくつかに分けて投稿していきますが、今後更新していくかはわかりません。自分のペースが大事なので。

大まかに書いていたり、記憶の曖昧さによって少し脚色されている部分もあるかもしれませんが、同じような境遇の方や、「軽自動車のエンジンと車体のような器で、工夫して時速200kmで走って、たまに事故っている」ような人生に少しでも共感して勇気を持ってくれる方がいましたら幸いです。

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生まれ、高校卒業まで(1990年~2008年)

1990年1月9日 和歌山県田辺市に生まれる。

父は日置川町(現:白浜町)出身で、駅裏に結構な土地のある旧家?の出身で中学卒業から大工となり、建設業の会社を営んでいた。母は白浜町出身で、高校卒業後に就職、結婚を機に専業主婦となったようである。

2歳下の弟と10歳下の妹がおり、小学生の頃は父の事業もうまくいっておりそれなりに裕福で、将来の社長なんて周りの大人から言われてお小遣いをくれたりよくおやつをもらったりもしたが、意味はよくわからず、そういうものなのだと感じていた。

その後、当時の建設業の例に漏れず、バブル崩壊~阪神・淡路大震災後の妹が生まれるあたりから父の事業が立ち行かなくなり、不仲になっていく両親と資金繰り地獄と人が離れていくスピードの恐ろしさを見続けた。いつもお小遣いやおやつをくれていたあの人達は、さほど時間をおかずに「毎日集金を催促するおじさん達」となったが、それはルーズな両親が悪いと恥じていたので、多数のおじさん達に対してはさほど何も感じなかった。

とはいえ、立場の変化で態度や意見が変わる大人には吐き気を催した。子どもの自分には何もできないことや、周りから好き放題に言われることに対しての悔しさや羞恥心もあった。

そんな環境が影響したのか影響していないのか、小5から不登校気味になった。

おそらくきっかけだったのは、いじめの主犯扱いをされて、校長室での弁明の際に担任の先生と校長先生が一切主張を取り合ってくれなかったことで、直後あたりの記憶はあまり無いものの、この件は今でも鮮烈に覚えていて一種のトラウマのひとつでもある。子どもの話は、間違っていてもまず聞こう。

相手の子が変なあだ名をつけられたり悪ふざけのように皆からいじめられていたのは事実で、主犯(と僕が認定している人物)も他にいたが、当時の僕はロジカルで言葉がきつく、忘れ物やミスも多くどこか抜けていたのに、なぜかいつも学級委員をやっていたタイプだった。そのため僕が特別目立って相手を傷つけてしまっていたのかもしれないが、当時は「なぜ自分だけ」と感じていたし、そこは大人になるまでわからなかった。

「学校」や「教師」は自分にとって聖域であり聖職者の方々だったが、ひとつの失敗で意見や態度が変わる前述の「集金のおじさん」と化す人達と本質的にはあまり変わらないんだなという気づきに対して、身近で尊敬すべきだったからこそ失望や嫌悪感を強く覚えた。そして、そんな失望と嫌悪と羞恥の惰性から、中学時代はほぼ学校に通わなくなる。今思うと身勝手で自己都合な話であるが、あの手この手で学校に連れ戻そうとする両親や先生達に辟易していたのも事実である。

なお、このときにネットゲームやネットコミュニティにはまった僕は、Webサイトの構築や簡単なプログラムの作成やコミュニティ運営のようなものを独学で学び、当時の匿名性の高いインターネットで知らない人と友達になれる楽しさも知った。この点は今のSNS社会を立ち回る術として、とても役に立っている。もしかすると彼らとは人生で一番仲良くなったかもしれないが、今何をしているのかは知らない。

引き続き、学校には行かないながらも、中3のときの担任の先生がとても良い方で、「がんばって学校に来い」ではなく「自分のペースで良い」と毎日のように家に来て、なぜか幼い妹と遊びながら声をかけ続けてくれたことは、今自分がこうしてここに存在するための原体験だったと思う。

「自分のペースで良いんやで」

月並みな言葉だが、繰り返しおまじないのように言われ続けた言葉は、今でも大切な言葉のひとつである。

そのあたりから社会復帰をしようと思ったものの、今さら学校に復帰するのは自分的にハードルが高かったので、高校入試からの復帰を考え始める。PCスキルがそれなりに高く、比較的入学しやすい学校だったこともあり、数ヶ月で中学3年分の勉強を詰め込んで地元の工業高校の情報システム科に進学する。

工業高校なら男性が多いので、不登校状態から復帰してもそこまで皆から深入りされないだろうという居心地と、情報系で専門教科の多い学校なら全員イチからの勉強なので、小5からインターネットにどっぷり浸かった自分の経験は優位に働くと思ったと同時に、地頭へのそれなりの自信もあったので、授業についていきやすく、それなりに成績上位になれるだろうという打算もあった。

ちなみに高校1年のとき、育った家を引き払うなどお金はなく借金のある家庭だったが、バイトもせず高校3年間は運動音痴ながら弱小バスケットボール部に所属し、打算通り成績もそれなりに優秀なまま、ほぼ皆勤で、友人もできたし無事に高校卒業もさせてもらうことができた。
その点では両親にとても感謝はしているし、父親からすると逆境を自分の力で跳ね返した自慢の息子だったようであるが、あの時学校に行かなかったことを選択しなければ自分はどうなっていたのだろう?

そんな「選ばなかった世界」の理想と現実の差は、青春時代のコンプレックスとして心に残った。

もしかしたら、今でもそんな理想を追い求めているのかもしれない。

就職、エンジニア時代から農業との出会い(2008年~2013年)

高校を卒業する際、僕は進学ではなく就職を選択した。

当時はリーマンショック前ということもあって求人が豊富だったのと、家庭の経済的理由もあったが、エンジニア系に就職するなら自分が行ける範囲の大学で4年を潰すよりも、4年で実務能力や技能を身に着けた方が良いだろうと考えた。このあたりの考え方は、大工をしていた父の影響や、料理人だった母型の祖父の影響が大きいと思う。「これからは職人の時代」「腕があったらどこでもやっていける」は父の口癖だった。

学業は高校時代の成績がそれなりに優秀だったので大企業への就職チャレンジも考えたのと、その後の在職中も含めて和歌山を離れる選択肢は何度もあったのだけど、基本的には「地元で最先端のことができるならそれがベストだろう」という考えから、地元で評判の良かったセキュリティ系パッケージソフトを開発する白浜町のITベンチャー企業に就職する。

品質保証部門に配属(当時の新卒の慣例だったらしい)となった僕はソフトウェア開発のラストワンマイルとも言える観点から、開発プロセスやシステム、業務フローなどの仕組みの部分を学ぶ。

もともと直感型の人間だったので、当時でも既に珍しくなっていた3ヶ月みっちりの新人研修をはじめ、コンピューターの基礎から報告書の書き方、大手製造メーカー仕込の品質管理技法、業務プロセス改善、プロジェクトマネジメントの手法まで、18歳から23歳までの5年間で様々なことを学ぶことができたし、省庁の仕事や大企業関連の仕事に少し関わらせてもらったり、海外の開発チームなどとも一緒に仕事ができたりしたのはその後の人生でとても大きな経験になった。

この間に結婚して娘も産まれ、金銭的には苦しい部分もあったが、今思えばそのおかげで必要なものや必要なことを自分で探して身につけていく基礎力を身に着けることができたのだと思う。

その後、同社が当時の新規事業として農業分野に取り組みだした際にそちらの仕事をお手伝いしていた関係で外部との交流も持つようになった。
そして、ラボで作業をしながら組織の中で高卒で新卒で世の中をあまり知らないまま組織の意思決定プロセスをこなしていく自分の姿があまりにも狭く、自分が30歳までに求めるスキルと現状に大幅なギャップがあることに気づいてしまった。

実際、周りに対してこの危機感と組織への危機感をうまく伝えることができず、当時の自分は様々な軋轢を生んでしまっていたが、これは「成長痛」なんだと自分を美化し、正当化してしまっていた部分はあったが、この癖は本当に良くなかった。そのことに気づくのは、ここから5~6年後のことである。

そして、このときたまたま出会った「農家」というライフスタイルへの憧れは止めることができず、自分も新規就農をしようと試みた。しかし、「娘が小さいんだから普通に働いて稼げ」と妻に言われ、話し合いの結果一旦諦めることに。家庭を巻き込むことはひとりで意思決定をしようとしてはいけない。そんな経験だった。

売り先は確保していたものの、確かに貯金もなく農家でバイトをしつつ生活費を稼ぎながら補助金を得て農家になろうとする自分の甘いビジネスプランは妻には意味不明だっただろうし、事業を運営していくだけのスキルと覚悟と説得力がそもそも今の23歳の自分にはないのだと気付かされた。

農機具業界への華麗ではない転身(2013年)

そんなこんなで就農を諦め、せめてもの反抗として地元新聞に掲載されていた農機具屋の募集を見かけ、そこに就職することとなった。

時系列は少し前後するが、就農を諦めきれなかった僕は、パフォーマンスとして就職活動をして、就活したけどダメだったという姑息な流れで就農をしようとしていた。そしてやる気のない面接で2社の入社面接を受けた。1社は予想通り不採用だったものの、なぜか藤原農機という地元の農機具店に拾われることになってしまった。

ここでは後に農機具通販シェアNo.1となるECサイト「アグリズ」を運営していたのだが、そこの募集が「未経験可、HTML・Adobe系ソフト使える人優遇」ぐらいの求人だったので、やったらできると思うけどAdobe系はほぼ使ったことがないしそんなにやる気もなかったし、落ちたら就農、受かれば就職という、人生の方向を決めるギャンブルぐらいの感覚で面接を受けた。

後に聞いた話では、2歳上の店長(現役員)は当時かなり僕をプッシュしてくれたようだが、予想通り社長の評価はいまいちだったようだった。
しかし、数日後にその社長にFacebookで発見され、友達申請とともに「家の近くで飲んでるけど来るか?」とのメッセージが送付されてくる。

履歴書を送っているとはいえ住所を特定されて、面接をしただけの相手に食事の誘いを受けるというのは、大丈夫か・・・?何をされるんだ・・・?と、今だから言えるものの少し気味が悪く不安だったのだが、特に断る理由もなく食事の誘いは基本断らないようにしていたので行くことにした。不安は的中せず、出張帰りに社員と焼肉を食べていたので一緒にどう?という内容だったらしく、「少し気味が悪い」などと思ったことを心の中で少し反省した。

採用の決め手としては、僕のFacebookのプロフィール写真が良かったのと、どうやらこの食事の誘いに乗ってきたのがフットワーク軽くて良かったらしい。何が決め手になるかわからないものである。
焼肉に同席していたのが後に同じく藤原農機の役員となる方で、2軒目は駅前のスナックに場所を移し、前述の店長の方もその飲み会に合流、深夜12時以降は記憶が薄れていたが、その時に「採用!」と社員2名から言われたのはかろうじて覚えている。

これでもう逃げられなくなった。
そして、就農支援をしてくれていた方々にもご迷惑をおかけする形になってしまった。

思うところは色々あったし、支援してくれた友人も色々と思うところはあっただろうが、「農業に自分が携わるのではなく、色々な方の農業を支える存在の方が向いていそうだし農業全体に対して貢献できるのではないか」と妻から言われたことはある種自分の中で救いになった。言うときの妻が「してやったり」という顔だった気がしないでもないが。

そして僕は農機具屋となり、「修理の仕事とか興味ない?」という社長からの一声により、通販部門ではなく明らかに適正の無さそうな修理・サービス部門に配属されることとなった。

電話も営業もクレーム対応もできないし世の中のことなんて何も知らなかった当時、オフィスワークへの興味を失っていたし、そもそも30歳までに色々なことを身に着けたいと考えていた僕は即「あります!」と答えたが、2020年、30歳となった現在、今思えばここが人生のタイトルコールだったのかもしれない。

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