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放っておけば火は消えるからだ。~自分を信じることの必要性~

”自分自身を先ず信じられるから、私は考え始める。そういう自覚をいつも燃やしていなければらなぬ必要を私は感じている。放って置けば火は消えるからだ。”

批評の神様呼ばれる小林秀雄が書いた、この文章は、僕が自分自身を信じるということを、まるで親父にぶたれるように身にしみて体感した一文です。(あとでこの文の全体像も載せます)最も好きな文章の一文であり、このように抽象と現実を行き来し、違和感なく、ありありと、信じることに関しての深淵と人間の性質とを記し書き出している文章を僕は他に知らない。信じること、それは一種の信仰。現代では、信仰というとすぐに宗教のイメージに転化されてしまい、日本の宗教団体の事件史からマイナスのイメージがこべりついてしまう。しかし、宗教に対する偏見は数ある宗教的史実の一部分だけを見て宗教は悪いと言っているようなもので、ちょうど、あの学校は悪い子とした奴らが一人いるからだめな学校だと決めつけてようなのです。

信仰と宗教は必ずしも一致しない。信仰とは、単に何かを拝むことではなく、胸に炎を燃やし続けることであり、その光をたよりに生きていくことだ。まず、どうこうと述べる前に、信じることは自分自身を信仰すること。その雰囲気を感じて欲しい。

「宗教は人類を救い得るかという風に訊ねられる代わりに「君は信仰を持っているか」と聞かれれば、私は言下に信仰を持っていると答えるでしょう。「君の信仰は君を救い得るか」と言われれば、それは解らぬと答える他はない。私は私自身を信じている。という事は、何も私自身が優れた人間だと考えているという意味ではない。自分で自分が信じられないという様な言葉が意味をなさぬという意味であります。本当に自分が信じられなければ、一日も生きられている筈はないが、やっぱり生きていて、そんな事を言いたがる人が多いというのも、何事につけ意志というものを放棄するのはまことにたやすい事だからである。(中略)
 自分自身を先ず信じられるから、私は考え始める。そういう自覚をいつも燃やしていなければらなぬ必要を私は感じている。放って置けば火は消えるからだ。                ~信仰について~

「宗教」という語が、組織や制度までも含めて指す包括的な語であるのに対し、「信仰」は人(あるいは人々)の意識に焦点をあてた語である。また、人やものごとを信用・信頼すること。
証拠抜きで確信を持つこと。またそれらを信じることを正当化する要因
 という性質を持っている。それを踏まえた上で再び上の文章を見てみると、信じることの全体像が見えてくる。信じる(信仰)という言葉がある程度哲学的考察を心得た人なら、言語的解釈の中で無意味に昇華してしまうような希薄な言葉のように感じて止まないのだが、それはあくまで広い認知領域の言語的部分の一部分だということを理解した氏の発する言葉の中では、惑うことなく、生き生きと瑞々しく、麗しく、現実を生きる我々の人生の教訓として輝いている。

#小林秀雄 #信仰 #宗教 #火 #意志 #信じる #信仰について #哲学

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