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遊びにいくからお金ちょうだい! 大人が口にしてもいいじゃん

対馬に行ってゴミを拾ってこい!
そんなインスピレーションに従い
9月に友人たちと対馬に行って
ゴミ拾いをすることが決まった

友人Sを誘ったとき
金の都合がつかない
ってことで
いったん参加を保留にしてきた

そこで俺はこう返した

「奢るから一緒に行こうぜ!」

俺はS氏と一緒に対馬に行きたい
対馬で一緒にゴミ拾いして
観光もして色々と楽しみたい
そして
S氏も本当は行きたい

互いがやりたいことは一致しているのに
それができない理由は
ただ一つ

金がない


馬鹿らしい


だから俺は
奢ると伝えた
奢ってでも一緒に行きたいから

実際のところ
S氏を対馬に連れていく金は
今の俺にはない
これから入ってくるかもしれないし
入ってこないかもしれない
それは分からない
だけど
頭っから金がないことを理由に
やりたいことをやらないなんて
人生もったいない
のちに後悔することが分かっているから

金のことは気にしないで一緒に行こう!

そう伝え
S氏も参加することが決まった


「金ないんだろ
バイト代入ったから
奢ってやるよ」

学生時代
ともだちとの間で
そんなやり取りが当たり前だった

一緒に遊ぶ
楽しい時間を過ごす
そのために
持っているものを互いに出し合う
自己犠牲じゃない
自分のために奢る
そんな感じだった

だけど社会人になってからは
それが大幅に減ってきた気がする
自分の生活は
自分で何とかしなければいけない
そんなところから

俺の金は俺のもの
お前の金はお前のもの

という分離感が濃くなってきた感覚がある

自分の生活は自分で何とかしろ
自分の夢は自分で頑張ってかなえろ

ひとりで頑張らなければいけない

そんな概念で生きるようになってきたし
それが大人になることだと思ってた

だけどその結果

分離感は大きくなっていった

ひとりで頑張れる人はまだいい

だけど
頑張れない人はどんどん苦しくなる


俺とお前
この分離感は
所有と執着を強め
欠乏感になり
格差につながり
劣等感や人生のネグレクトに
つながっていくんだ


俺のイメージしている新文明は
この分離感がない
俺の金もお前の金もない
俺の夢もお前の夢もない
誰かの夢をみんなで叶える
シェアできるものはシェアする
それが当たり前の世界だ

それこそ学生の時のように
一緒に遊びたいけれど
それが叶わないのであれば
一緒に壁を超える
そんな分離感のない関係性が
世界中に広がっている


遊びにいくからお金ちょうだい!

これが通用するのは
親や親せき
仲のいい人くらい
それに
これが許されるのは
子どもだけ

なんで?

なんで大人は言っちゃいけないの?

分離感がなければ
大人でも
誰に対してでもOKになる
そこに理由はいらない

いまではクラファンで
お金を集めることができるが
そこにはお金をいただくための
大義名分が必要で
これをうまく表現できた人のところに
お金が集まる

遊びにいくからお金ちょうだい!

それでは
クラファンでお金は集まらない

だけどね
本当に分離感がなくなっていれば
誰かの遊びは
自分のためにもなっていて
ひいては世界のためにもなっている
ってことに気が付く
だから
大義名分をわざわざ説明する必要がない

誰かの遊びは
自分事であり
世界事である
それを知っているから
その意識レベルにあるから

遊びにいくからお金ちょうだい!

というシンプルな言葉だけで十分
俺はそう思うし
新しい世界 新しい文明は
そんな意識レベルが当たり前
そうイメージしているんだ


今回の対馬旅では
新文明の旅を体現しようとしている
その一つが分離感の除去

だから
S氏に旅を奢ることにしたし
足りない予算は
誰かに支援してもらおうと
「旅に行くのでお小遣ちょうだい!」
とフェイスブックで投稿した

これまでの概念でいえば
大の大人が

「遊びにいくからお金ちょうだい!」

なんて投げかけるのは
あまりにも常識外れ
だけど
あえてそれをやってみた

なぜなら
それが分離感のない
調和のとれた
愛ある世界の暮らしだと
俺は考えているから

実際に3名の人が
お金を送ってくれたしね

とまぁ
そんな感じで
対馬旅を通じて
新文明の暮らしの体現をしてるって話



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