なぜ司馬遼太郎は「思想」を嫌ったのか
1928年生まれの心理学者・河合隼雄は「精神という言葉が嫌になり、科学や合理主義に飛びついた」と発言していた。これが終戦時20歳前後だった若者の共通した感覚だったのだろう。なぜ司馬遼太郎は「思想」を嫌ったのか。結論を先に言えば、太平洋戦争を阻止するどころか、積極的にコミットしていった当時の言論・思想界への苛立ちからだと思う。今回はこの辺を深掘りする。
◆司馬遼太郎のモチーフ
司馬の執筆の動機は「22歳の自分への手紙」だったそうだ。
司馬は22歳のとき終戦を経験している。軍隊での理不尽な経験も重なり、日本の軍部の愚かさが肌身にしみついていた。「いつから日本人はこんなに馬鹿になってしまったのか?」これが司馬の生涯にわたっての重要なテーマだった。
◆司馬史観は自虐史観?
余談だが(笑)、この前自称元ネトウヨの友達と司馬遼太郎の話になった。彼は司馬が嫌いだった。
「ネトウヨ界で司馬史観はひどく嫌われている」とそいつ。
「なんで?」とぼく。
「今日の自虐史観の元凶みたいな考えだから」
「でも司馬は、昭和陸軍が嫌いだっただけで、日本は好きだったはずだよ」
「昭和の軍人は馬鹿だったから無謀な戦争を起こしたという考えが気に入らない」
なるほど、ぼくは司馬史観が批判されている理由を誤解していた。批判の理由は出典の曖昧さや事実の誇張(歪曲)というアカデミックなものではなかった。もっとピンポイントに、司馬の15年戦争に対する解釈が右寄りの人に不評だったようだ。
「経済制裁を受け、にっちもさっちもいかなくなって、やむなくの戦争だったにもかかわらず、司馬遼太郎はただ『昭和の将校は馬鹿だった』と片付けている。けしからん!」とのこと。
◆思想は戦争を止められなかった
司馬は昭和以前の人々を優秀なリーダーとして書き続けた。司馬にとっての「優秀」とは、ものごとを如何なるときも「合理的」に「リアリスティック」に「実証的」に見れることだ。
たとえば日露戦争は、リーダーが戦争のやめどきをきちんと理解し、大局を見る力があったために、なんとか勝てた戦いだという。しかし昭和に入ると局地的な「戦術」は立てられても、長期的な「戦略」を立てらなかったので、敗戦した、らしい。
戦時中、言論界は雄弁だった。神道はもちろん、国学、仏教、京都学派にいたるまでのあらゆる思想が、積極的に発言している。しかしそれらは皆、戦争の愚かさを止めるのではなく、正しさを根拠づけてしまった。
日本には思想があった。インテリが抽象的な理屈を積み重ねていった。しかしその結果は異様な皇国史観が生まれただけではないか。22歳の司馬の怒りがここにこめられていると思う。そうすると、『世に棲む日日』の一節が大きな皮肉であるとわかる。
◆思想とは幻想なのか
悲しい定義だ。ぼくには受け入れられない。
ぼくは思想とは「平衡感覚」だと思っている。「常識」といってもいい。
簡単に言えば、疲れているときは身体を休めて、ごろごろしているときには身体を動かすということだ。しかしこの感覚は磨かないと、疲れているときに身体を酷使させ、休みすぎているときにもっと休ませる。いま「私」がどういう状況にあるのかを教えて、日々の生活をより快適にさせる方法と感覚。それが思想だと思っている。
だから司馬のいうように、抽象的で中身のない幻想であるとか、狂気沙汰とは思えない。もっと言えば、リアリズムだけで戦争は勝てない。軍人や民衆を支えた確かな感覚(江戸期より受け継がれた儒教的思想あるいは武士道)がなければ明治維新も日露戦争の勝利もなかっただろう。それは現代の思想なきリアリストをみれば明らかではないか。
◆最後に
司馬遼太郎はぼくを児童書から卒業させ、歴史の面白さを教えてくれた作家だった。中学1年で『項羽と劉邦』を手に取って以来、代表作はだいたい読んだ。「戦国もの」より『竜馬がゆく』『峠』『燃えよ剣』『坂の上の雲』など幕末から明治にかけての作品にハマった。若者の突き抜けた明るさが清々しかった。
高校になってから文学にかぶれだし、徐々に読まなくなっていった。実は久々に読んだ『世に棲む日日』は4巻中3巻で止まっている。登場人物の明るさが単純で薄っぺらく感じてしまった。人間の心理は合理主義に徹するほど強くできていない。一見、無頼な攘夷志士も素朴におっ母さんを愛していたろうし、夜の森がなんとなく怖かったりしただろう。司馬の作品にはそうした人間の情けなさはあまり扱われない。
今回の記事では司馬とぼくとの考えの違いについて書いてきた。ただしぼくは司馬作品の深いところを見落としているかもしれない。今でも嫌いな作家では決してないので、少し時間を空けておこう。
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