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今こそ“感性”を研ぎ澄ませる〈自己分析24問目〉


僕は高校時代に野球部に入っていて、そこでは「野球ノート」を書いていました。内容は練習から得たことや反省点など、よくあるようなものです。

しかし、唯一「これは他の野球部もあまりやってないだろうなぁ」という項目がありました。


それは「感性」という欄があることです。まずノートを開いたら、野球のことではなく、「最近気づいたこと」について書き始めます。これは僕の部活でのルールでした。


今日は「こんな時代にこそ“感性”を研ぎ澄ませることが大事なんじゃないか?」という内容です。


「感性」の欄には何を書くのか?

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実際に野球ノートの「感性」の欄に書くことの決まりは一切ありませんでした。

例えば、「今日は電車に乗っていたら日本人が英語で話していて、かっこいいと思った」とか、「学校で勉強したイザナミとイザナギの話が面白かった」とか。「お腹が空いて辛い」とかでもOK(笑)。


つまり、「感性」の欄に書くことは部員によってかなり変わってきます。


当時高校生だった僕は、「感性を書く意味」について、「視野が広がる」とか、「気づきのアンテナを鍛えるもの」という解釈をしていました。実際これは間違ってないと思うし、野球は相手の一瞬のスキを突くスポーツなので、とても良かったと思います。


一方で、この2021年に「感性」について考えてみると、もっと別の意味合いもあるんじゃないかなぁと思い始めました。その点について、ここから深掘りしていきます。


コロナ時代にこそ「感性」を研ぎ澄ませる

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そもそも「感性」という言葉を、辞書的に訳すと以下のようになります↓

かん‐せい【感性】
1 物事を心に深く感じ取る働き。感受性。「感性が鋭い」「豊かな感性」
2 外界からの刺激を受け止める感覚的能力。カント哲学では、理性・悟性から区別され、外界から触発されるものを受け止めて悟性に認識の材料を与える能力。

〈引用先URL〉
https://kotobank.jp/word/%E6%84%9F%E6%80%A7-49002


かなり抽象的な言葉ですが、めっちゃ端的に言えば「そこから何を感じるのか」ということだと思います。


道端を歩いていた時に咲いている花を見て感じること。美味しいご飯を食べた時に感じること。友達と話している時に感じること。特に決まったことはないです(あくまで僕の解釈です)。


逆に、感性という言葉から、「芸術作品を見て感じること」とか、「音楽を聞いて思うこと」のように、文化的な意味合いを感じる方も多いかもですが、それはあまり本質的ではないように思います。

むしろ、「日常に転がっている当たり前の中に何を見出すか」ということの方が、よっぽど芯を捉えているのではないでしょうか?


そして、このコロナの時代にこそ、この“感性”をより一層研ぎ澄ませていくことが非常に重要だと考えています。


その理由は以下の通りです↓

1)“気付く余白”が無くなってきているから
2)“人間らしい生活”がコロナに奪われてしまった
3)“感性が豊かな人”ほど魅力的になれる時代だから


技術の進歩は止まることなく、僕たちはスマホ中心の生活に慣れてしまいました。そして、「周りの出来事に気付く」という“余白”が失われてきているように思います。

さらに、そこに拍車をかけるように、「コロナ時代」がやってきて、無理やり“人間らしい生活”を奪っていきました。


そんな時代だからこそ、「感性が豊かな人」の価値はどんどん上がっていって、貴重な存在になっていくような気もしているんです。


※この理由について、次回の記事でもっと深掘りしてみたいと思います。


10年後にどうなっているか?

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高校野球は今から10年も前の話ですが、その当時に「感性をノートに書く」ということをしていたから、僕は今こういう記事を書けています。もしそれをやっていなかったら、そもそも「感性が鈍い人間」になっていたかもしれません。

そう考えると、ちょっとぞっとしますが、逆に言えば、「今、感性を研ぎ澄ませておくこと」にかなり価値がありそうです。


10年後、僕はどんな人生を歩んでいるか、まったくわかりません。でも、少なくとも、今よりも感性が豊かで鋭い人間になっていたいなと思います。


明日の記事で今日の続きを書きたいと思いまーす!

ではまた。




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