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「戦争の足音が」と警鐘 国策にほんろう 終戦期の中国・日本見つめ

 きょうで終戦から78年。石巻市鹿又の阿部静さん(101)は「南満州鉄道」のグループ会社「華北交通」で鉄道機関士をする夫、峯雄さん(享年81)へ嫁ぎ、昭和16年に中国河北省の張家口市に渡った。敗戦後の20年冬に引き揚げるまで約4年過ごし、その間に現地の中国人と交流を深め、収容所生活も体験。国に振り回された阿部さんは「最近のテレビを見ていると当時を思い出す。戦争の足音が聞こえるようだ」と警鐘を鳴らす。

 阿部さんは大正11年、鹿又道的の米農家の生まれ。10人きょうだいの長女で、2つ上の兄、誠一さんは仙台西団で通信兵を務め、グアム島で戦死した。昭和14年に県鹿又実科高等女学校を卒業後、身を立てるために単身上京。洋裁を学ぶはずが、「軍服ばかり作らされた」と振り返る。

 体が弱かったこともあって実家に戻った阿部さんに縁談があり、写真見合いを経て19歳で結婚。夫が国策会社・華北交通の機関士であったことから、河北省の張家口市に移り住み、そこで長女、志津代さん、長男、隆行さんを産んだ。

 同市内の住居は「お手伝いさんのいるとても立派な家だった」と言う。現地の豪族が所有する土地や住居を日本政府が占領して警察や国策会社に分割しており、城内は阿部さんらを含めて3組の日本人家族が暮らしていた。

 ところが、20年8月の敗戦で生活が一変。「これが張家口から乗ることのできる最後の列車」。軍にそう告げられ、阿部さんは3歳と生後2カ月の子を抱き、引き揚げのための列車に乗った。

昭和16-20年の戦中を主に中国河北省で過ごした阿部さん

 近隣に住む中国人家族とも交流があり、引き揚げの際には向かいに住んでいた家族が見送りに来た。「奥さん、日本へ帰って、いつここ(張家口市)へ戻ってくるの」と尋ねられ「もうここへ来ることはないんだよ」と答えると大声をあげて泣き、家族みんなで送り出してくれた。

 走りだした列車はソ連軍や人民解放軍と思われる兵士から鉄道に銃弾を撃ち込められる中、2駅先で停車。線路に仕掛けられた地雷で脱線した鉄道が立ち往生していた。中では峯雄さんが働いており、そこで偶然に再会することができた。

 一家は収容所に送られ、一畳分のスペースで4人で過ごすことを強いられた。子どもたちは大人2人の体の上で横になって眠った。食事は「健康食」という五穀米をふやかした茶碗1杯の粥。それを全員で分けて食べた。

 いくつかの収容所を経た12月、天津の大沽から船や鉄道を乗り継いで石巻へ。船内では日本人男性から盗難にあったが、当時、そういったたぐいの話は珍しくなかった。

 戦後、貨幣価値が暴落し、満州で蓄えたお金も紙切れ同然。現在の鹿又駅前付近に長屋を借り、他県から疎開してきた2家族としばらく暮らしを共にした。食料難などから長女と長男は栄養失調になり、阿部さんも目を患って現在まで尾を引く。

 ウクライナの戦禍が始まる前から「世の中はおかしい方へ向かっているのでは」と懸念する阿部さん。100歳を超えても戦時を忘れることはなく、「戦争はしてはいけない。孫やひ孫が徴兵に行かなくてはいけない事態にならないかが怖い」とはっきりした口調で語っていた。【泉野帆薫】





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