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進駐軍「おっかねがったなぁ」元養蚕指導員の近江さん 「戦争二度としちゃいけない」元地裁事務官の亀山さん

 3回目の最終回はともに小規模多機能型居宅介護施設「めだかの楽校」=石巻市蛇田=を利用する近江春子さん(95)、亀山廣さん(91)の体験談。肉親にもほとんど話したことがないという証言は、郷土の歴史に刻まれる貴重な内容だ。

 日和山の一画に住んでいた近江さんは、終戦の時が19歳。10代の多感な時期が暗い時代に重なった。

 「父が病弱でうちは貧しかったから、石巻小学校を出たらすぐに働きに出された。駅前に養蚕(ようさん)の事務所があってね。一日50円の給仕から始めました」。その後、資格をとって養蚕を指導する仕事に変わったという。

 空襲が来るようになると、羽黒山に上って隠れるのが当たり前に。自宅にいる時は、押し入れに身を隠した。

 石巻駅からは毎日のように出征兵士の旅立ちの光景を見た。小旗を振りつつ「あの人たちはどこへいぐがわがんないけども、死ぬんでねぇがなぁ」と思ったという。そんな兵士のためにお守りの千人針をよく縫ったのを覚えている。「どういうわげだが、寅年の人が縫うといいと言われてね」。

 ある日、日和山から見えた空が真っ赤になっていたので恐怖を感じた。それが、昭和20年7月の仙台空襲だと後で知った。

 終戦の時は、近くにラジオがなかったので、よく分からなかった。駅前に憲兵の事務所があり、そこの小遣いさんが「逃げるよ」と言ってきたので、意味がよく分からなかったという。進駐軍の捜索を恐れた憲兵がいち早く去ったようだった。

 終戦後は、進駐軍の兵隊が来て何をされるか分からないので、周囲から「赤い服は着るな」と言われた。立町で初めて見た米国人は、ビールを飲みながら歩く大男。「おっかねがったなぁ」と振り返った。

終戦企画三回目近江さん亀山さん

記憶をたどって証言した近江さん(右)と亀山さん

 大街道に住んでいた亀山さんは、10人きょうだいの下から2番目。裕福な家ではなかったため、ほとんど麦飯の生活。「まずくてねぇ。白いご飯が食べたくて湊の姉夫婦のところへ転がり込んだ」と話す。

 石巻商業に進んだが、まともな授業はなく毎日勤労奉仕に出かけた。小牛田駅に続く東北本線の線路の敷設、補修に汗を流し、田んぼの草取りなどに従事した。

 「仕事はきつかったが、白いご飯のおにぎりが出た。それがおいしくてね、ありがたかった」と顔をほころばせた。

 すぐ上の兄は、志願して海軍のパイロットになったが、体を壊して家に帰ってきた。その後、上海航空の民間パイロットになったが、ある時、シンガポールに軍人を輸送することになり、同行した3機のうち1機だけ撃ち落とされ、兄が犠牲になった。「一番やさしい兄だった。(遺品は)何も残っていない」と悔やんだ。

 亀山さんもまた石巻から見た仙台空襲を覚えているという。自身の空襲体験もある。中瀬を機銃掃射した米軍機が、踵を返すように湊方面に向きを変えて襲ってきた。いつも家族と逃げていた五松山に向かって銃撃してきた。一瞬、「やられるかもしれない」と思ったが、弾は命中しなかった。

 戦後、軍隊帰りの男性と結婚した近江さん。「真面目でいい人だった」という夫は、震災前に他界した。「健康も大切だけど、人との出会いで生かされてきた。感謝しています」と今の施設での生活に満足そうな表情を見せた。

 仙台地裁石巻支部の事務官を勤め上げた亀山さんは、バイオリン演奏が趣味だったが、今は楽器を持つこともなくなった。「戦争は二度としちゃいけない。世界が仲良く生活できる努力、工夫が大切」とはっきりした口調で言った。【本庄雅之】


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