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「未来につながる今の暮らし」 元石巻市教育長 阿部和夫さん マンガが変えた歴史の価値観

 終戦から76年。戦時中の体験を語れる人たちは、ますます高齢化し、直接話を聞ける機会が減っている。石巻地方が米軍の空襲にさらされたことを知らない世代も多い。平和のありがたみを今一度かみしめ、未来に生かすためにも貴重なエピソードを3回にわたって紹介していく。初回は石巻市教育長などを経て、現在、石巻市芸術文化振興財団理事長の阿部和夫さん(83)にうかがった。

 昭和13年生まれの阿部さんは、石巻の中心市街地で生まれ育った。戦時中は、父親が横浜の海軍工廠(こうしょう)に徴用され、母親と妹と3人で二軒長屋に住んでいた。

 ある日、盲腸の手術を受けることになったが、灯火管制下で薄暗い中で行われた。一つ間違えば命にかかわる出来事だった。空襲の時は、自宅2階の窓際に布団を積み上げてじっと身をひそめた。

 「防空壕(ごう)はあったと思うけど、どこにあったかは知らない。いろいろな人間関係、力関係でウチは入れなかったんじゃないかな」

終戦特集阿部和夫さん (2)

昭和20年3月の新田町幼稚園の卒園写真。阿部さんは手前から2列目の左から6人目

 子ども心に覚えているのは、矢本方面の空襲。米軍の戦闘機を撃ち落とそうと日本軍は高射砲を撃つが、「みんな届かないで、はるか手前でさく裂するんだね。飛行機からはだいぶ離れていた」

 機銃掃射の後、薬きょうを拾いに行こうとした時は「母親にこっぴどくしかられた」。阿部家唯一の男児だったため、何かあっては大変という親心だった。

 来る日も来る日も真っ暗闇の時間が多く不安を抱えた毎日。「死ぬかもしれない」と思うことはなかったが、「お袋は、死ぬ時は一緒だからと私たちを離さなかった」という。

 食糧は、内陸の北村や沿岸部にいる親類から米や海産物などを届けてもらった。連合艦隊司令長官の山本五十六が戦死した昭和18年、国葬のニュース映像を見た時は「神様みたいな人が死んで日本は大丈夫なんだろうか」と思ったそうだ。

 終戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の方針で、教科書にある軍国教育につながる表記を墨で塗りつぶさせられた。その中に、ウサギとカメの競走の話があり、カメが日の丸の旗を立てて喜んでいる絵があって、「こんなものまで塗るのがやぁ」と思ったという。

終戦特集阿部和夫さん (1)

戦時中の生々しい体験を話す阿部さん

 また、住吉小3年の時、日本の味方だと思っていたドイツの総統ヒットラーを極悪人として描いたマンガを見て、衝撃を受けた。「私の価値観が180度変わった。表面に出てるものと本当の姿は一致しないことってあるのだと強烈に感じた。私が歴史を学ぶ道に進んだ原点」と話した。

 教員になってからは、児童に家族らの戦争体験を聞く学習を行ってきた。軍に徴用されて戦死した漁民、人間魚雷と言われた潜航艇を隠しておいた牡鹿半島の秘匿壕など故郷の負の歴史にも目を向けてきた。

 少年時代を振り返って「自分はそういう時代に生まれたんだな。あれがあったからいろんな苦労を乗り越えられた」としみじみ話す阿部さん。「今の人たちは恵まれた境遇にあることが大前提でものを考えますよね。私たちは場合によっては生きられなかった。あの人が生きてればと思う人はいっぱいいる」と故人に寄り添った。

 そして「現在の生活は過去からのつながり。私たちがどう暮らすか、それが未来につながっている。過去をどう理解してそれをどう生かすかを大事にしてほしい」と次世代に語り掛けた。【本庄雅之】


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