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空間と時間俯瞰し提案 「乗り越えるのがプロ」 10年滞在で第二の古里 コンサルが見た震災㊦

 東日本大震災後、巨額の予算が割り振られた被災自治体は前例のない大規模事業に取り組み、英知を結集して災害に強いまちを作り上げた。石巻市ではコンサルタント会社(株)ドーコン=本社・札幌市=の石巻分室責任者の今野亨さん(59)がさまざまな業務にあたった。決して順風満帆ではなく、批判の矛先が向くときもあったが、未来の石巻を思い描き、構想を形にする縁の下として約10年間住み続けたまちは〝第二の古里〟になった。

■設計から怒られ役まで

 ドーコンの派遣職員として平成24年に石巻市に赴任した今野さんは、市の震災復興基本計画の事業化支援業務から参画した。市民のために、という姿勢は、派遣の立場を超え、結果として多くの仕事を任されることにつながった。

 石巻市市街地復興工事調整会議の運営支援もその一つ。無数にある復興事業の工事調整や施工現場周辺での環境配慮を目的に国と県、市が27年に設置した会議体だ。ドーコンはその運営支援業務を受注し、膨大な工事関連情報を収集・整理して、効率的な工事調整や環境配慮活動を支援し続けた。

 工事調整業務の例を挙げると内海橋周辺では、橋自体の整備を中心に河川堤防、区画整理、再開発など全15事業が入り混じっていた状況。豪雨時の浸水対策、内海橋の供用に伴う交通形態の切り替えなど複合的な課題が生じ、発注者と施工業者の間に入って解決の糸口を探った。

小学生向けの復興工事見学会で説明する今野さん(右)

 市民への情報提供として28年度から令和2年度まで広報紙を発行したほか、パネル展の開催、中瀬公園での働く車の展示イベントなども展開。小学生、高校生、市民向けの工事現場見学会は計17回を数えた。

 今野さんは「コンサルは技術的な下請けだが、石巻の復興の現場では発注者の同僚、俯瞰(ふかん)する専門家、時には市民とさまざまな役割が求められた」と話す。

 それが表面化されたのが震災遺構を巡る議論となった門脇小、大川小の検討現場。ドーコンはその会議の準備作業を担った。住民との意見交換の場を設定したほか、完成後の青写真も描いた。

 今野さんの記憶に強く残っているのは、被災した大川小校舎を巡る協議の場面。「お前に被災した人の気持ちが分かるのか」。厳しい声の主は会議を通してよく知った人だった。

 「あれは私に言っているようで実は行政に対する叫びだ、とその場で受け止めた」と今野さん。「ここでの仕事は報告書作りをするような通常のコンサル業務ばかりではない。怒られ役であったり、受け止め役であったり」。背景にあるのは命。遺族や住民の思いと行政の役割との間に立ち続けた。

■こんな魅力的な街ない

 コンサルのあるべき姿とは何か。石巻市で取り組んだ既存の民間賃貸住宅の復興公営住宅化を例に、今野さんは「将来を俯瞰し、最終的な利用者である市民の立場で考え、自治体などのクライアント(顧客)に『今はこの事業が必要』と提案する役割」と語った。

 企業の立場からすれば利益が必要であり、新しい建築・構造物を作るに越したことはないだろう。今野さんも「既存の土地や住宅を活用した事業は『儲からない仕事を作りやがって』と小言を言われるかもしれない。でも、長い目で見れば、石巻の未来の負担を軽くする。目の前の利益と将来のメリットの間にあるジレンマを乗り越えられたならばプロとしてうれしい」と力を込めた。

 滞在8カ月間の予定が10年となった石巻での生活と仕事。「私たちが担当したのはごく一部」と謙遜しながらも「10年は私の子どもが小学生から社会人・大学生になった時間。もはや石巻は第二の古里」。

 「釜大街道から渡波・万石浦までの海岸堤防や旧北上川沿いの河川堤防空間などは、北北上運河と相まって、全国的にも数少ない骨太な水辺のネットワーク空間であり、石巻市民は新たなインフラを手にした。皆さんがどう活用していくかが楽しみ」と今野さん。「山・川・海はもちろん、骨太な水辺のネットワークをもつ街があり、分け隔てなく接してくれる人がいる。こんな魅力的な街はなかなかない。ここでの仕事と生活は終えたが、今後、発生するさまざまな課題の解決に向けた手伝いができればと思っている。また、帰ってくる」。この地に魅せられた一人の本音だ。【秋山裕宏】




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