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忘れているカラダの感覚

大人になって社会生活を営んでいるぼくらは

ほとんどが「わたし」がカラダを動かしていると思っている。

「わたし」が動かしていないのにカラダが勝手に動き出したら困ってしまうとすら思っちゃってる。


いのちの営みの正体は滞りなく運営されている無意識運動。

体液、血液の循環

消化、吸収、排泄

死ぬまでのあいだ一瞬たりとも停止せずに運営されている。

体内はずっと動き続けているわけ。


だからカラダが動いていたり揺らいでいることのほうが

動物である人間にとっては自然なの。

実際にカラダを動かさないでいると疲労度合いは濃くなる。

カラダを動かしたり、揺らしていると疲労度合いは薄まる。


集団生活のなかで動かないでいることを覚えさせられて適応してきた。

そして動かないでいることが本来の在り方であると錯覚してしまっているのがぼくらの現在の姿。


活元運動も学んでみたいとおっしゃっる方の整体指導の際

彼女のカラダでも特に緊張が激しい右腕に愉気をしていたら

ちょうど右腕が動きたいという反応を示した。


そのまま愉気をしながら動きたがっている右腕をサポートして

動きに寄り添っていくことにした。


すごく明確に右腕が動き出してくれたので

持ち主である彼女にも

ぼくが動かしているんじゃなくって

自分の右腕が主体となって動き出していることが理解できた。


そりゃ、カラダにしてみたら一番緊張している部位を緩めたいからね。

そんなに動きたがっているカラダが動かないように

ブレーキーを踏んでいるのは「わたし」という自我意識。

大脳意識の「わたし」なの。


カラダがじっとしていないのは変だという他者の視線を気にする意識だったり

カラダは勝手に動かないのが正常だと思い込んでいると

ブレーキーはどんどん強くなってしまう。


カラダが勝手に動くという感覚をすっかり忘れて大人になっていたとしても

幼児の頃は誰しもが自由にカラダを動かしていたのだから

カラダの心地よさを取り戻して

ブレーキーを外せばいい。

そのために頭をポカーンとさせたい。

大あくびをして頭の中が空っぽの時間を持つことで

ブレーキーはどんどん緩んでいく。


ポカーンとして「わたし」が静まって

カラダに委ねられるようになると

幼児の頃や、寝相のときのように

ふたたびカラダは生き生きと動き出してきます。



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