野口整体の学びの入口が活元運動です。
数年前に顔面を打撲してから
ずっと痛みが無くならなかったものが
ぼくが愉気をしていたら消えてしまったらしい。
ご本人曰く、打撲直後には自分でも愉気をしてたんですけど・・・・
だとすると単に手を当てていただけで
愉気が出来ていなかったってことを示している。
以前住まわれていた地方で野口整体の会?に参加した体験がある方だった。
ただし活元運動が出たことは無かったらしい。
だとするとちゃんとした愉気にはならない。
先日もアメリカに住まわれている方が来室されて
どうしたら整体指導者になれますか?
と質問をいただいた。
野口晴哉に魅了されると、同じことができるようになりたいと憧れる。
野口先生の文章や講義録はたくさん残っている。
ただしその言葉は当時の整体協会の会員だったり、弟子である整体指導者に向けて発せられたもの。
大前提として語り掛けられている相手は全員、活元運動を行っている人間になる。
だから学びの入り口は当然活元運動の訓練になる。
活元運動が出ない状態で人に触れてもまともな愉気にはならない。
野口先生の文章が好きで何度も読み返したとしても知的理解の範囲を出ない。
カラダを感じたり、「気」を感じるってことは実践が伴わなければ無意味。
まずは実際に活元運動をやってみること。
自分でやってみて活元運動が出ないのであれば
自分が気が合うと感じた整体指導者から直接教わってみてください。
整体指導を受けていただいて愉気を受けてみて
自分のカラダの内部で動く気も感じられるようになったタイミングで活元運動と向き合われるとスムースに活元運動が出てくることが多いです。
ここ最近野口整体を学びたいって相談を立て続けにいただいている。
確かに世間一般の人間の見方とは違うのだけど
気が感じられる感覚が育った人が
丁寧にふれて観察できるようになって
手応えで多くの情報が感じられるようになると見えてくる人間の見方なの。
そういう手やカラダの感覚がある人がほどんどいないので特殊なものだと思われていますが
感覚が育ってくれば感じられるようになる普遍的な人間の見方です。
だから活元運動の訓練をしていってカラダで感じられる感覚を育てていく。
手に気が集められるようになって愉気ができるようになることが基本。
活元運動がいつでも出てくるようになったら
そこからが学びのスタートになります。
タイトルに野口整体の学びと書いてみましたが
いのちを営んでいる本体が無意識運動です。
その無意識運動を再認識して親しむのが活元運動。
だから単純明快にいのちの学びになるわけです。
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