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【小説】1.それはデカルトにも解けない

「あの飛行機雲はあなたと私みたいね」


 二つの飛行機雲が交差し、互いに引き離れていくのを僕らは見てた。

 愛している人に愛されている状況というのは奇跡だ。愛の難しさを知ったとき、自分がこの世界に生きていることが少し奇跡に感じた。
彼女の空を仰いだ横顔が沈みかけた太陽に染められて輝いている。


無条件に優しい海風が、僕の頬をなでたとき、僕はいつものように、あの光景を思い出した。


                                    *

その日もよく晴れた、風の気持ちいい日だった。

「さあ、問題だ、五角形の内角の和はいくつだ」


僕らは皆、難しい問題に静まりかえった。

白鳥先生はおそらく、今まで一度も整えたことのない白くて長い眉毛で、みんなの反応をこれは想定内だという顔をしたまま続けた。

「いいか、君たち、頭の中に野球のベースを思い浮かべろ」

「野球のベースは何角形だ」

「はい!五角形です!」

僕はすぐに答えた。

「そうだ、じゃあこの五角形のベースに線を引いて三角形を作ってみろ」

僕らは五角形を三角形に分けた。

「三角形はいくつできた」

「三つです」

「なら三角形の内角の和はいくつだ」

白鳥先生は分厚いレンズの眼鏡をくいっとあげてたたみかけた。

「180度です」

すでに習っていたことだったので答えるのは容易だった。

「ではもう一度聞く、五角形の内角の和はいくつだ」

十秒ほど考えた後、すぐに鳥肌が立った。それは分からないことが分かった瞬間だった。

「540度です」

「いいか君たち、難しい問題や、複雑な問題というのはな、簡単な問題の組み合わせなんだ」

「複雑なことは単純なことに分割して考えなさい」

「君たちにはどんな難題も解ける力があるんだ」


 白鳥先生の声が教室中に響き、窓から5月の爽やかな風が吹き抜けた。

15年以上経った今でも、僕はこの授業を鮮明に覚えていて、何かにぶち当たっては、風にあたって白鳥先生の言葉を思い出した。そしてどんな難題も解けるんだと自分に言い聞かせて生きてきた。

けれど僕らが生きている世界は、ひとつひとつの問題が複雑に、それは解けないくらいに絡まっている。

そして、大人になればなるほど、この世界の混沌さに気付いて絶望した。本当の正しさや、美しさを理解することはとても難しいことだった。

ただひとつだけ言えることは、君が好きだという事実は、どれだけ分解しても変わらなかったということだ。

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