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【勉強エッセイ】共和政ローマ

僕が大人になってから勉強しようと思った理由はこちらの記事をお読みください。

参考図書は「一度読んだら絶対に忘れない世界史の教科書」です。

身分闘争

「古代ギリシア」とともに、ヨーロッパの文化の源流になったのが「ローマ帝国」だ。ローマ帝国は、西ヨーロッパから地中海全域に及ぶ大帝国だったため、道路や建築、言語など、ヨーロッパに「統一性」をもたらした1つの重要な要素となる。

ローマの前半は、王や皇帝をもたない「共和政」という時代だった。

初期のローマの共和政も、ギリシアと同様に、身分差があった。国の指導権をもつ会議だった元老院や、最高官職であった2名のコンスル(執政官)も、貴族に独占されていた。

ローマが強大化すると、ギリシアのときと同様、重装歩兵として戦争に参加していた平民は、貴族に対して身分闘争を挑んだ。

こうして、ローマも段階を踏んで平民の参政権が向上していった。まず、平民の権利を守る護民官という制度や、平民会という平民の会議が設置されます。続いて十二表法という法律が制定され、貴族による法の独占を防いだ。
そして、定員2名のコンスルのうちひとりは平民から出すというリキニウス=セクスティウス法が定められ、平民の権利がグッと拡大した。

「平等」から生まれた対立

「平民会の決議が元老院の承認なしに国の法律となる」というホルテンシウス法が定められた段階で、平民の権利と貴族の権利がほぼ平等になり、身分闘争は終わりを告げる。

平民は平民会で自分たちに有利な法をつくれるようになったが、国の指導権は依然、貴族たちの元老院が握っていた。

当然、貴族はその法を元老院において自分たちに有利になるように運用し始める。法をつくる平民と、法を運用する貴族が対等の立場になったことで、両者の対立がますます深まることになった。


ギリシアは民主政になったのに、なぜローマは対立が深まってしまったのだろう。その違いは僕には分からなかった。

法をつくると法を運用するの意味が僕にはよく分からない。

例えば高校生が髪を染めても良いという校則をつくったとする。学校側がこれを運用するとして、染めてもいいが、何色までといったふうに細かく決めるということなのだろうか、それとも髪を染めてもいいかわりに、テストで60点以上とりなさいといった様なことなのだろうか。

サッカーなどのスポーツでファウルやオフサイドを判定するのは審判で、貴族側が審判ということなのだろうか。

どちらにせよ、法やルールや決まりごとは、普遍的に揉め事や対立が生まれるのだろう。秩序は正義であるのかどうかは分からないけど、無秩序の世界はきっと恐ろしい。無秩序の大自然たちはなぜ平和に見えるのだろう。そう見えているだけで、本当は残酷なのかもしれないし、しっかりとした秩序が自然にもあるのかもしれない。でも間違いなく、人間では秩序がなければ成り立たない。

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