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はじめに──東京の社会運動団体で起こった韓国人女性への「大人のいじめ」

目次

はじめに 
出来事の主な経緯
Dへのインタビュー 前篇
Dへのインタビュー 後篇 
── リさんから "Dへの一連の対応こそが植民地主義的"
── y.さんから "セーファースペースってなんだ?"
── 平野さんから "2018年、渋谷の上映会で起こったこと"
── Bさんから "台湾の友人として思ったこと、考えたこと"
── あなたの悪意を恥ずかしく思う──ツイッターアカウント「ノーモア・マヌケ」に抗議する(→new! 9月18日公開)

はじめに

わたしの友人、Dは、韓国出身で、イギリスの大学で学んでいるが、現在、日本の社会運動への好奇心と、愛着と、そしてまた自身の研究のために、東京に滞在している。​

そして彼女は今、東京の社会運動のなかで、東京の社会運動団体によって、大人のいじめ──としか表現しようのない、つらい状況に置かれている。

最初、Dからその話を聞いたとき、わたしは驚き怪しんだ。その団体は現在の社会運動を牽引する、すばらしい団体のひとつであることを承知していたからだ。誤解があるなら解きたい、できれば仲介に立てないか、話し合いで解決できないか、と最初は思ったものだ(実際にそうした。うまくいかなかった)。

原因を探っていくうちにわかったのは、その社会運動団体のメンバーたちが、Dをフェミニズムの文脈から鑑みた「事件」の「加害者」、もしくは「帝国主義者」として扱っている、ということだった。
急いで明記しておくが、彼女、Dは、どんな事件の「加害者」でもないし、「帝国主義者」でもない。

衝撃的だったのは、十分な確認もないまま、憶測と偏見から、そうしていたこと、そして、彼女をそう扱うことが、この社会運動団体内では、ある種の正義となっていたことだった。


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Dは、初来日から二年あまりであり、日本語も(急速に上達しつつあるものの)、それほどうまくはない。そして、こんなこと言っては失礼かもしれないが、社会運動以外に、日本にほとんど知り合いがいない。ちいさな社会運動は、友人・知人関係で構成されて、閉鎖的になりがちだ。そんな場所で、大勢から無視される、誤った噂を流される、イベントからあらかじめ排除される、など、もう一年以上もこの状態が続いている。

Dはタフな女性だとわたしは思う。韓国の金融危機、IMF介入の影響をもろに受けた世代で、家庭の事情もあり、自らの道を独力で開こうとしてきた努力家だ。韓国での社会運動経験もあり、パワフルなフェミニストでもある。でも、ここ、東京で受けた大人のいじめ──拒絶される恐怖、否定される恐怖、人間関係の全てを失うのではないかという恐怖──が、あっという間に、彼女の自己肯定感や自尊の感情、ひいては普通の生活を奪いとっていってしまった。それはもう、はたで見ていても恐ろしいくらいに、すばやかった。

その社会運動団体が、東京の運動のシーンで現在もすばらしい取り組みをしていることは先に書いた。その思いは、わたしは今でも変わらない。その点で尊敬をしているし、彼女や彼のいうことなら確かだとずっと思ってきた立派な活動家を何人も擁していると、今でさえちょっと思っている。Dも、まったく同じ思いだという。

ただ「良いことをしているのだから」、「セクシャリティや、ジェンダー、フェミニズムの問題に熱心に取り組んでいるから」、「今、重要な取り組みをしている最中だから」という理由で、社会運動だけが批判や反省から切り離されていいはずがないとも思う。閉鎖的な空間になりがちなのであれば、なおさら、問いや批判に開かれていることが、必要なのではないか。
そして、丁寧な検証を抜きにした、大義名分のための、仲間うちだけで通用する正義と「加害者」叩きは、孤立した人をエンパワメントするフェミニズムやジェンダーといった考え方から、もっとも遠いものであると思う。

そもそも、問題を一層、むずかしくしているのは、その社会運動団体は、あいまいだけれど確実に存在する、彼女に向けた悪意を認めていないことだ。
無視するのは、個人的に口を聞きたくないから、イベントには来るなといったが、最終的にそれを決めるのは彼女自身だ、来なかった場合でも彼女の意志でそうしたのだからこちらに責任はない、誤った情報に基づく噂話は、ただ個人としての感想を口にしただけ──。

社会運動だって、完全に、社会から切り離された存在ではない。だから、今回のことは、極めて日本的な状況の一部といえるのではないか。もしそうであれば、外国人・女性、という弱い立場の人間が、団体に叩かれるようになったのも偶然ではない。これは、彼女と、とある東京の社会運動団体との間の、特殊な関係の話ではなく、この社会を構成するわたしたち全員に関係する話なのだと思う。
そこで、このなんともいえない陰湿な現象を、仮に「大人のいじめ」と呼んでいる。ほかにもっと適切な呼び名があったらそちらに変えたい。

いじめられている人間の多くは無力感に苛まれる。だからこそ、自分のことは自分で始末をつけるという、最後のイニシアティブを、他人に明け渡すことが辛いという。今、ここにこうして文書を書いているのは、自分の中に残っていたパワーを、わたしたちに預けてみようと思ってくれた彼女のおかげだ。この場を借りて、わたしはDに感謝をしたい。

彼女が感じている恐怖は、彼女が伝えようとしていることを、理解しようとしてくれる人が増えていくことによって、はじめて、少しづつ薄らいでいくのだとわたしは思う。
まずは、これら文章を公開することで、彼女の人物像が意図的に歪められ、喧伝されている事態だけでも、なんとかしたいと思っている。

Dの友人を代表して y.(2020年6月)

ここに公開する文書は、2019年の暮れからちょっとずつ準備しはじめました。2020年夏の東京オリンピック開催を控え、反オリンピック運動の盛り上がりの邪魔をしたくないというD自身の要望もあり、公開のタイミングには慎重になっていました。もちろん、その間に彼女を取り巻く状況が改善されれば、公開中止をするつもりでした。けれども状況は悪くなるばかりであり、オリンピック後の公開も検討したものの、コロナウイルスの感染拡大によってオリンピックそのものの延期が決定、こうした経緯を踏まえて、今回、Dとも相談の上で、文書の公開に至りました。

 すべての写真:撮影 D

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