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y.さんから "セーファースペースって何だ?"

【自己紹介】Dの友人のひとりです。東京に住んでいます。「セーファースペース」と呼ばれる社会運動内での取り組みについて、今回、考えたことを書きました。文章内でも明らかにしていますが、10年ほど前にセーファースペースの制度を利用したことがあります。

わたしは10年ほど前に、セーファースペースの制度をつかって、制度内に設けられた苦情受付係に、申し立てをしたことがある。当時、わたしは20代半ばだったが、とある年上の男性活動家によってこわい思いをした上に悪口を言いふらされ、ことのてん末を自分の手柄話として機関誌に書かれる、ということがあった(※わたしの主観です)。それで、実際にこの制度を体験し、その分思い入れもあるものとして、Dの話を聞いたとき、「どうして、セーファースペースの苦情受付係と、主催者が一緒なんだろう?」とまず思った。10年前は、べつべつだった。この二つが一緒だと、主催者から不利益をこうむったとき、苦情を持っていく先がない。Dの場合は、まさにこのケースだったと思う。

セーファースペースは、世界各地で大規模な反グローバリゼーション運動が行われていた頃に生まれたアイデアだ。運動にはいりこんだ私服警察(と、私服警察=スパイかもしれない、と人を疑うこと)への対応や、警察からふるわれた暴力に対するケアも、その取り組みの主たる目的だったと聞く。でも、日本では今、もっぱら運動内部や、イベント時におけるセクシャルハラスメント、差別問題への取り組みとして機能していると思う。わたしが申し立てをしたのは、日本におけるセーファースペースと名のついた活動の、その黎明期だった。それから10年をへて、この国の状況に合わせた受容と、発展がなされたのではないか。

セーファースペースというアイデアを最初にやってみようとした人たちは、導入に慎重だったと聞いている。それは、かつての日本の運動にあったように、運動内部のヘゲモニー争いに、このアイデアが利用される可能性もあったからではないだろうか? こうした慎重な態度は、的外れではないと思う。いやな話だけれど、運動内部での差別や暴力を告発するためではなく、別の目的のために告発が利用されることも、わたしたちは、歴史から学んだりして、いちおう想定すべきだろう。それに告発が、誤解や一方的な思いこみという可能性もある。

詳細はインタビューや経緯などにゆずりたいが、「反五輪の会」は「加害者」の言い分に耳をかたむけることは「被害者」を追いつめる「二次加害」だとして、問題の発端となったイベントから一年以上たったいまでも、Dの話を聞かない。しかし、セーファースペースの実施者/苦情受付係がすべきなのは、どっちかの味方をする、というより、異議申し立て者と申し立てられたもの、その両方の言い分に丁寧に耳をかたむけること、中立の立場から状況を精査すること、少なくともこの二点ではないだろうか。

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わたしが異議申し立てをしたとき、セーファースペースの苦情受付係の窓口は、十年来の親友だった。この親友のすごいところは、最後まで、中立の立場を崩さなかったということだ。当時、わたしは、友達なのに味方してくれないなんて、とちょっと恨んだけれど、いまとなっては、それが適切な対応だったとわかる。わたしにしても、慰めや味方が欲しかったわけではなくて、受付係に望んだのは、出来事の全貌を客観的に解明してほしいということだった。わたしは、この過程をつうじて、かの男性活動家の思い上がったかんちがいをただしたい、と望んでいた。

こうしたプロセスが一切なく、人間関係のせまい社会運動界隈で、言い分を一切聞かれずに、一方的に「加害者だ」と決めつけられてしまうことは、当人にとって苦しい。Dは現にいま、「反五輪の会」が主催した一年前のイベントで、とうてい承服できない、身に覚えのない事柄で「加害者」とされてしまい、そのために広まる噂やレッテルばりに苦しんでいる。

繰り返しになるが、10年前、たいへんお世話になり、「このアイデア、いいなあ」と思い、その後、自分たちで試してもみたセーファースペースに、わたしは敬意と思い入れがある。だからその分、考え込んでしまうのだと思う。そのきっかけになった出来事を、記してみたい。

先日、Dにつきそって、都内のとある大学で行われた、オリンピックに反対するシンポジウムに行った。彼女は最初からずっと、出席したがっていた(Dの所属研究機関が主催で、会場だった)。けれども、「反五輪の会」からは、事前に、このシンポジウムのみならず、このシンポジウムを含む、一週間連続で行われるオリンピックに反対するためのすべてのイベント(ワークショプ、デモ、ピクニックetc)に、Dは来るなと言われていた。むこうの文面は丁寧だったけど(「参加をお控えいただきたいと私たちは思っています」)、ようするに、そういう内容のメールだった。

それでも行く、というDの決断は、わりあい早かったと思う。特に大学で行われるイベントは、テーマや、主催者や、開催場所からして、何もなければ必ず自分も出席していたはずのものである、わたしは本当に何もしていないのに、当の「被害者」女性が来る可能性のある場所には、この先も出席できず、ずっと隠れていなければならないのだろうか? そもそも、「反五輪の会」に個人的に出席を禁じられるのも、おかしい。シンポジウムの主催団体やゲストは、どこまで承知しているのだろう、と。

わたしは、彼女のきっぱりした態度をまぶしいような気持ちでながめた。

このころ、わたしは「反五輪の会」とDの仲介に立てないか、ことを荒立てずに収めるために、いろいろ試みているさいちゅうだった。そしてその試みはことごとく失敗していたが、どこまでも甘いわたしはまだ、「大丈夫だよ、ちゃんと話せば、きっとわかってもらえるよ」なんて言って、彼女を慰めていたのだ。でもこの一方的な通告を受け、さすがに暗い気持ちになった。これではろくろく調べもせず、偏見と憶測からDを「加害者」扱いしているのと同じではないか。「反五輪の会」は、表向きだけのことかもしれないが、中立の立場を崩していなかったのに。

結局、Dは事前にメールで出席を知らせた上で、イベントに参加した。このとき、彼女が日本語で書き送ったメールは、かなしい。

To 反五輪の会の皆様                                                                                         メイルありがとうございます。ご意見もらったので2つのイベントだけ参加するようにしてます。今日の学会は自分が所属している研究室が主催する会なので参加いたします。ご理解お願いします。

Dは強い女だが、にしたって、ひとりでというのも心細いのではないか。わたしも当日、彼女について行くことにした。イベントの日、わたしたちはまず、会場となった建物の入り口で「反五輪の会」のメンバーたちの出迎えを受けた。「本当に出席するのか?」と先方はたずね、「もちろん」と答えると、大きなため息をつかれた。あたり前だけど、ぜんぜん、歓迎する様子ではなかった。

会場内では、壇上からもっとも遠い、後方の一角にすわる場所を指定された。むこうにそんなことする権利はないと、内心ムッとしたけれど、Dは粛々としたがった。そうだ、わたしたちだって、別に、嫌がらせに来たわけではないのだ。でもイベントの間じゅう、「反五輪の会」は、こっちの動きにたえず注意をはらっていたし、結局、ずっと目を離さなかったと思う。それは、にらむ、というとわたしの主観が入るが、ぜんぜん、いい感じではなかったのはたしかだ。場を和ませようと「なんか見はられてるみたいだね」と冗談っぽく言ってみたけど、冗談じゃなくて、本当に見はられているのだった。Dは緊張しきっていて、ノートをとる手がずっとブルブル震えていた。かわいそうだった。

わたしが一番、いやだったのは、外の自販機で飲み物を買おうとエレベーターホールに行ったときに、「反五輪の会」のメンバー二人(か三人、急でよくわからなかった)に制止され、「ちょっとすみません、すみません」と真顔で言われながら、少し離れたところの隙間に押し込まれたことだった。後になって考えてみると、どうも、Dを「告発」した「被害者」の女性が、エレベーターで下から上がって来るところに偶然、わたしは行きあったみたいだった。その女性に、わたしは、姿を見られてはならなかったのだろう。むこうもびっくりしただろうけど、わたしもびっくりした。了解も説明もなく、いきなり囲まれて、押しこめられて、はっとするほどいやだった。リベラルな雰囲気のイベントでこんな目にあうなんて、とても皮肉だと思った。

その後、1時間半ぐらいいたけれど、登壇者の発言は、もうぜんぜん耳に入らず、結局、途中でギブアップした。「反五輪の会」からの絶え間ない注視を含む、その場の雰囲気がしんどかったのだ。「本当にごめん、途中だけど帰ることにした」とわたしが言うと、「大丈夫! 先に帰って、ホントに大丈夫だから!」と優しいDはこちらを気遣って、ちょっと大げさに手をふった。あいかわらず顔には血の気がなく、笑顔にも無理があったけれど。

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Dは韓国の人で、わたしに、皮肉ではなく、真剣に、「こういうのが日本の運動の、普通のやり方なのか」と、聞いたことがある。

わたしも、しばしば混乱とともに、自問してしまう。

セーファースペースの苦情受付係が「加害者」の言い分を聞くことは、そのまま「被害女性」に対する「二次加害」になる、という理屈に、わたしはうなずけない。Dの友達としてももちろん、10年前、この制度に助けられた「異議申し立て者」としても、うなずくことができない。そこは自分の中でははっきりしているのだが、あの日おこなわれたイベントで、「反五輪の会」によって「セーファースペース」の名のもとに、出席が拒まれ、見はられ、誰かの視界から消されようとしたことに、わたしは、いまだ衝撃を受けているのだと思う。「反五輪の会」は、わたしやDへの不信感から、厳戒態勢を敷いたのだろう。ひょっとしたら、わたしたちが、「告発」した女性に危害を加える可能性があるとすら、思っていたかもしれない。

でも、とわたしは思う。

以下に引くのは、昨年、Dが、自分を「加害者」と呼んで糾弾する、「被害者」女性の属する団体に書き送ったメールからの抜粋だ。

過去五ヶ月の間、私はすでに十分に苦痛を受けてきました。心理的に萎縮し、身体的にも苦しみました。私の苦痛を羅列し、苦痛の量や質を比べ競うつもりは微塵もありません……トラウマや傷が深くていますぐ対話をするのは無理であっても、根拠のない不安や排除によって被害・トラウマの連鎖を生む悪循環はここで断ち切ることができるよう、真心から願います

あのイベントで、わたしはセーファースペースの庇護のもとになく、Dもなかった。それどころか、「安全・安心」を脅かしかねない要注意人物として遇された。その立場から見たとき、いったい全体、セーファースペースとは、なんなのか。誰のための、なんのための、本当に、なんなのだろう?

y.(2019年11月20日)
写真:撮影者 D


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