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平野さんから "2018年、渋谷の上映会で起こったこと"

Dは2017年の暮れに初来日して以来、東京の山谷・隅田川地域の野宿者支援運動に関わってきました。この取り組みに共に参加する、平野さんからの原稿です。韓国で発表されたDを糾弾する文書を受け、韓国の活動家へ向けて書かれました。第三者から見た渋谷上映会当日の様子や、発表された文書の信ぴょう性への疑問が綴られています。本人の許可を得て、転載します。

「平昌オリンピック反対連帯」の文章(2019.7)について

私は、東京東部の日雇い労働者の町・山谷で日雇い・野宿者への支援活動をしている平野と申します。山谷との関わりは1970年代の終わりから約40年に及びますが、その中で日雇い・下層労働者をめぐる歴史の変遷を身近に経験してきました。

Dと出会ったのは2017-18の越年越冬闘争の時期でした。友人に誘われて初めて山谷に来たDが、路上に置かれた何台ものかまどに燃え盛る火を見て驚き、野宿の仲間たちとの率直な付き合いを通して「山谷が大好き」になっていくのを知って、私もうれしかったです。私は大学時代に日韓条約反対闘争に参加したことがきっかけで日本と韓国の関係に深い関心を持ち、80年代には韓国政治犯の救援運動を組織する中で韓国語を勉強したこともあって、Dとは急速に仲良くなりました。

ここまでは私の自己紹介を兼ねた前置きです。

山谷と(上映会のあった)渋谷は、行政などによる野宿者排除に抗する運動を、協力してやってきました。もちろん、渋谷の共闘団体の一つである「反五輪の会」が積極的に担っている2020東京五輪の反対運動にも、ともに参加してきました。

2018年11月22日の渋谷・美竹公園で「平昌オリンピック反対連帯」(以下「平昌」)の活動家の方々を迎えて行われた、88ソウル・オリンピックの際の住民排除に関する映画を観る会には、渋谷からの呼びかけに応えて山谷からも何人かが参加しました。私もDと一緒に美竹公園に行きました。 

夕方、渋谷の仲間が用意してくれた夕食をみんなで食べているとき、「平昌」の活動家たちがやってきました。そしてそのなかの一人(Dの知っている男性活動家)と会って話していると、「反五輪の会」のCさんが私たちのところに来て困った顔で「韓国から来られたAさんが、Dさんを見て一緒の場にいるのは不安だと言っている。彼女は今日の集会で韓国の状況について話をしてくれることになっているので、いてくれないと困る」と言うので、何事が起きたのかと私はびっくりしました。そのあと、「反五輪の会」メンバーの2人がDに向かって「Aさんが不安だといってイベントに参加できない。私たちは不安な人を守らなければならない」と言うのです。これにDは自分を排除をするのかと聞き返して抗議をしました。すると彼らは「Dさんがここから出ていくかどうかはDさんが決めてほしい」と言いましたが、事実上の排除です。「オリンピックで野宿者排除反対!」の運動を展開し、まさにそのテーマの上映会をしようとしている「反五輪の会」がこともあろうに、その参加者を排除しようとは何たることかと、私は「びっくり」を通り越してあきれてしまい、「Dは出ていく必要はない」と即座に返しました。でも、このことのために上映会は30分も遅れていました。Dは「この集会で発言はしないし、Aさんに話しかけることもしない」という条件を自ら出して上映会の最後まで公園にとどまり、Aさんも結局戻ってきて、何事もなかったかのようにアピールをして、集会はとりあえず「無事に」終わりました。

 12月以降、「反五輪の会」とD(および私たち)とは直接またはメールを通して意見交換を試みましたが、「反五輪の会」の人たちにはいまだにこのことをめぐる韓国の状況を全く理解できていない(理解しようともしない)ことは、残念としか言いようがありません。

その後、私は「平昌」がネット上に流したという文章を見せてもらい、目を疑いました。それによると(上映会当日について)「Aをはじめとする〈平昌〉の活動家が公園に到着するや、Dは”私は通訳をしに来た””なんでクソを噛んだような顔をしてるんだ”と大声で言った。・・・AはD氏が突然現れて”通訳しに来た”と公々然と大声で言うのが理解できず、むしろ面食らう〈平昌〉の活動家たちに向かって、自分を歓迎してないと怒っているような態度に、激しいストレスを受けた」

一体これはどこの何の話をしているのでしょうか? 繰り返しますが、私は美竹公園での上映会当日、Dと一緒に公園に行き、最後まで一緒にいました。「平昌」の活動家3人のうち1人の男性がDのそばに来た時(もう1人はDの知らない人だったそうです)、Dは彼を韓国の友人だと言って私に紹介してくれました。二人の会話は親しげな雰囲気で、決して「大声」でもなかったし、何か非難するような口ぶりでもありませんでした。そばにいた私でもよく聞き取れないくらいの声だったのに、その場にいなかった(遠くにいた)Aさんに聞こえるはずがありません。さらに、この文章は「当日の通訳は、反五輪の会と事前に相談して、別の人に決まっていたのに、D氏がことさら”通訳で来た”と言い募った」としていますが、メインの通訳は決まっていたけれど、韓国からのゲストが複数いるので、念のためDにも通訳を依頼するという話が事前の渋谷の会議でされたことを、私は渋谷の2人のメンバーから聞いています。つまり、Dが「通訳で来た」と言ったのは実際に間違いではなく、そのことを強調して言った訳でもありません。美竹公園に着いてから、「反五輪の会」のCさんに「通訳は1人で大丈夫」と言われて了解したと、Dは後で言ってました。

以上の事実関係を当日Dと最初から最後まで一緒にいた私の立場からまとめると

① 上映会当日、Dは「平昌」の男性活動家と個人的に話をしていたが、決して大声ではなかった。もちろん、なぜクソを噛んだような顔しているというような言葉を言っていません。

②Dが「通訳で来た」と①の活動家に言ったのは、事前の経緯から、間違いではない。にもかかわらず、この言葉を理由にして、当日に起こったことの責任をDに転嫁しようとすることは正しいことではありません。

そのうえで、「平昌」文章に対する私の感想を述べるなら

③Dと話していた男性活動家が、このように事実に反することを「平昌」に報告したとすれば、なぜそんなことをしたのか それこそ理解に苦しむ。

④「平昌」の文章は最後に同じような論法で「ノーリミットソウル」の際のDの言動を批判しているが、美竹公園でのことがここまで歪曲されて文書化されていることを見ると、私としては「平昌」の言い分は、全く信用に値しないとしか言えません。

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最後に一言、付け加えます。40年以上、いくつかの現場で活動してきた私の経験を振り返って、最も大切なことは運動のなかで出会う仲間との信頼関係です。絶対に仲間同士ウソをつかない、確かな根拠もなく仲間を貶めない――これが基本だと思います。私がDと親しいから彼女の肩を持つのではありません。「反五輪の会」の活動家たちこそ、ずっと長いこと運動の現場で一緒にやってきた仲間です。より親しい仲間を守るために事実を歪曲することや、その瞬間の過ちを認めたくないがために自分を正当化する理屈を並べ立てることこそ、運動を党派的にしてダメにするということ。「平昌」に結集するすべての活動家に、そのことをもう一度考えていただきたいと思います。

平野【写真・撮影者D】

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