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Bさんから "台湾の友人として思ったこと、考えたこと"

Bさんは台湾に住んでいる女性です。2017年のノーリミットソウルに参加し、イベントを開催しました。2019年7月、「反五輪の会」と「対策委員会」が韓国語の文章をネット上で公表します(詳細は「インタビュー」や「出来事の経緯」を参照ください)。これをうけて、Bさんは両者に質問状を送るとともに、その手紙を公開し、広く議論を呼びかけました。以下は、その手紙を日本語に訳したものです。
なお現在まで、「反五輪の会」(および「平昌オリンピック反対連帯」)からBさんに返事はありません。
(注:本人の了承のもとに一部、原文を改めています)

大家好,
Hi everyone,
모두들에게
みなさんこんにちは。

わたしは台湾に住むBです。2017年にノーリミットソウルに参加し、「Sex Work is a Fucking Work」というイベントを企画しました。この時、わたしはひとつの漫画冊子(ZINE)を制作しました。一人のセックスワーカーとして、ノーリミットソウルの準備段階で起こった論争について、自分の考えや感じていることを表明したかったからです。わたしが声を上げることで、対立を解きほぐす手がかりができるかもしれないという思いもありました。

しかし、それから二年が経ち、わたしの試みは失敗だったことがはっきりしました。対立は今もつづいています。さまざまなかたちで傷ついた人びとは、たがいにコミュニケーションをとることができないままで、傷とトラウマは癒えていません。上映会でDの身に起こったこと、その後「反ノーリミット」のグループから送られてきた回答について話を聞いたとき、わたしは彼女が不当な扱いを受けていると思いました。しかし同時に、わたしは台湾に住んでいて、日本語も韓国語も読めないので、事態をきちんと理解できていないのかもしれないとも思いました。なにかを言って、さらに多くのトラウマを生み出してしまうことへの怖れもあります。しかし、それでもわたしは——2017年のわたしがそうであったように——地理/言語/理解の隔たりを理由にして、沈黙をつづけることはできません。(わたしは自分自身が、この対立の最初のきっかけをつくった見えない原因であるとすら感じています。当時、日本の友人たちの日常生活のなかに、セックスワーカーであるわたしがいなければ、かれらはおそらくバーについての提案をしなかったでしょうし、その後の出来事も起こらなかったでしょう)

わたしはこの議論に参加し、いくつかの問いを投げかけ、みなさんからの回答を求める義務があると思っています。そしてまた、今後の議論が、韓国語と日本語以外の言語でも(中国語がなくても、少なくとも英語でも)おこなわれ、他の国々からノーリミットに参加した人たちにも理解できて、介入できるものになってほしいと思っています。これまでのところ、この出来事について中国語で書かれた最も詳細な経緯は(5月1日に出された)Dの声明 だったこともあり、コミュニケーションの手段として、わたしはDのフェイスブック上に自分の考えを発表すると同時に、「平昌オリンピック反対連帯」と「反五輪の会」にメールを送ることにしました。わたしがしたいことは、Dとまったく同じで、さらなる傷を生みだすことではなく、積み重ねられてきた論争や誤解をときほぐし、問題の核心を明らかにすることに他なりません。

わたしはDの声明文にある、次の一節に全面的に同意します。

人はいつ誤った判断をしてしまうか分からないということを前提にして、出来事をしっかりと省察し、一人一人が不可避的に受けた傷をケアし、その運動の参照点を作っていくことが重要だと思います。トラウマや痛みがあり、すぐに対話をできないこともあるかもしれません。そうだとしても、団体が一個人に対してかたくなに対話を拒みつづけることで、個人へのさらなるトラウマの連鎖が生み出されるという現状にも、終止符を打たなければなりません。

わたしはまさに同じ信念にもとづいて、以下に問題関心を明らかにし、問題提起をおこないます。

Dが「強姦文化と家父長的権力」の加担者であるかのように言われていると知った時、何が起こっているのかを理解したいと思う一方で、怒りや困惑、不安が入り混じった感情がどうしようもなくこみあげてきました。わたしがDと知り合ったのは、2017年のノーリミットソウルの時です。彼女から連絡をくれて、わたしのセックスワーカーとしての経験に真摯に耳を傾けてくれました。今回の論争を、彼女なりに理解しようとしていることも話してくれました。ところが現在、彼女はノーリミットソウルに参加してイベントを開いたというだけで、「強姦文化と家父長的権力」の加担者であるかのように言われています。では、同じくノーリミットに参加して、イベントも開いたわたしもまた「強姦文化と家父長的権力」に加担する一員になるのでしょうか? ノーリミットソウルに参加した人は全員、「強姦文化と家父長的権力」の加担者になるのでしょうか?

質問を二つに分けたいと思います。
(1)2018年の追い出し:Dが、「ボイコット」されなければならない対象であるという理由で、上映会からの退出を求められたことについて。

(2)2017年以降のボイコット:「反ノーリミット」のグループが、ノーリミットの参加者の一部を標的としたボイコット運動を開始したことについて。

(1)2018年の追い出し
まず確認しておきたいのですが、突然生じた状況のなかで、「平昌反対連帯」がDにその場から去ることをもとめ、メンバーを守ろうとしたことは理解できます。しかし同時に、Dに退出をもとめる過程でいくつかの不手際があり、そのために彼女は侮辱されていると感じたこと、暴力的に扱われていると感じたこともまた、理解できるのではないでしょうか? そうであれば、Dが声明の中で求めているような謝罪があってしかるべきではないでしょうか?

第二に、「平昌反対連帯」はDへの回答において、彼女が「強姦文化と家父長的権力」に加担していると言及していますが、これはあまりに過剰な告発ではないでしょうか? わたしにとって、「強姦文化と家父長的権力」の加担者であるというのは、きわめて挑発的な非難です。もしわたしがそう言われたとしたら、わたしだって侮辱されたと思いますし、不当だと思います。Dが本当に強姦や家父長的なふるまいをしたのであれば、それが何なのかを知りたいです。もし彼女がそうした非難を受ける理由が、ノーリミットに参加し、イベントを開催したということだけなのであれば、なぜ「反ノーリミット」のグループが、ある参加者たちだけをボイコットして、他の参加者たちとは連絡を取りつづけているのかを知りたいです。

(2)2017年以降のボイコット
わたしはこうした問いを提起することで、ボイコットが徹底されるべきだと言いたいわけではありません。現在のボイコット運動の原則には、問題があると言いたいのです。もっと正確に言えば、わたしが本当に問いたいのは、「個人を標的にし、コミュニケーションを拒絶するようなボイコット運動は、問題の解決につながるのか?」ということなのです。くり返しにもなりますが、わたしは「平昌反対連帯」がDに送った手紙の以下の部分に全面的に同意します。

問題が発生してからかなりの時間が経ちましたが、依然として何も解決されず、被害者は本国に帰ることができないままです。 問題提起者たちとかれらに連帯した人びとの状況も改善されないままで、まるで全ての対立が解消されたかのように問題に蓋をして前に進んでいくことは、 平昌反対連帯がともに目指すところと相容れません。

わたしの考えも同じです。そして元の問題が十分に共有されないかぎり、両者の間にあるトラウマが癒えることはありません。だからこそ、わたしはなにか抽象的な理念を述べたいとは思いません。具体的な状況について、もっと知りたいのです。2017年の論争の被害者は、トラウマを癒すために、誰かに何かをしてほしいと望んでいるのでしょうか? これまでのコミュニケーションと謝罪が、被害者にとって何の助けにもならなかったのだとしたら、それらの試みが受け容れがたかった理由は何でしょうか? この二年間、さまざまなかたちで傷ついてきた全員が、コミュニティを追放される恐怖から自由になり、自分の考えや気持ちを正直に話すことはできるのでしょうか?

コミュニケーションを拒絶するボイコット運動は、問題解決の可能性を窒息させるものです。友人であった人びとの断絶は深まり、さらなる傷が生みだされています。できることなら、ボイコット運動をやめて、誰も傷つけずに仲良くやっていく方法を一緒に見つけませんか。Dが書いているように、「トラウマや痛みがあり、すぐに対話をできないこともあるかもしれません。そうだとしても、団体が一個人に対してかたくなに対話を拒みつづけることで、個人へのさらなるトラウマの連鎖が生み出されるという現状にも、終止符を打たなければなりません」。

わたしがここで提起した問いや懸念は、Dと共有しているものもあれば、していないものもあります。みなさんからの返答をお待ちしています。そしてこの議論に参加するすべての人に、挑発的な強い非難をしないでほしいと思います。もうこれ以上の傷を生み出したくありません。もしわたしが間違ったことを言っていたり、同意できないことがあれば、どうか教えてください。

B(2019. 7.31)
写真:撮影者 D

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