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出来事の主な経緯

ここでは、出来事の主な経緯をまとめています。
詳細については、「Dへのインタビュー」をお読みください。

2018年11月22日に渋谷の公園で起きたこと

Dさんは都市のコミュニティ運動の研究者だ。彼女自身、かつてソウルでコミュニティ運動に参加していたこともあり、その可能性と困難について考えることがテーマとなった。Dさんは2017年12月に東京を訪れ、山谷の野宿者運動と出会い、衝撃を受ける。彼女はそのまま東京に住むことを決め、山谷の運動に参加しながら、研究を続けていた。

2018年11月、Dさんは山谷の友人から、「渋谷で行われる反五輪の映画上映会で通訳をしてもらえないか」との依頼を受ける。彼女は手伝いも兼ねて、上映会に参加することにした。

ところが当日、現場に行くと、イベントを主催する「反五輪の会」から次のように伝えられる。ゲストスピーカーでもある、韓国から来た「平昌オリンピック反対連帯」のAさんは、あなたがいると不安で気分が悪くなり、会場に入ることができない。Aさんはあなたに帰ってほしいと言っている。

突然の通告に、Dさんは唖然とした。出ていけということなのだろうか? 説明を求めても、「反五輪の会」は答えてくれない。Aさんが不安になる理由についても、教えてもらえない。それでも説明を求め、抗議をつづけると、どうするかはあなたが決めてほしいと言う。Aさんが会場に入れないため、開始予定時刻から30分が過ぎても、上映会は始まらない。会場内はざわつき、自分のせいでイベントが中止になるかもしれないという圧迫感が強まっていく。結局、Dさんは「一言も発言しないし、映画だけ見て帰るので、居させてほしい」と申し出る。「反五輪の会」はそれをAさんに伝え、彼女は沈黙で容認した。Dさんは、「わたしは自分の尊厳を自分で毀損する懇願をした」と振り返っている。

数日後、Dさんは山谷の共同炊事の寄り合いで、このときのことを説明しようとした。すると野宿者運動の仲間の一人が、「反五輪の会」のメンバーに聞いたという「事情」をその場で語ってみせた。

韓国で去年の夏に「ノーリミットソウル」という国際イベントがあった。その準備の段階で、日本のグループが、帝国主義的、性差別的な行動をとった。Aさんたちはそれを批判してイベントをボイコットしたのに、Dさんはそのグループと批判した人たちの仲を取り持とうとして、イベントに参加した。Aさんはそれを許せなかったのだ。

このようにして、Dさんは上映会から出ていくよう促された理由を知ることとなった。

では、「ノーリミットソウル」でDさんは実際には何をしたのか? さかのぼって説明しなければならない。

「ノーリミットソウル」とDさん

「ノーリミットソウル」は、16年に東京で開かれた「ノーリミット東京自治区」に続くイベントとして、17年9月に行われた。「ノーリミット」は、アジアのオルタナティブな文化/運動に関わる人々が集まり、数日にわたって交流するという企画であり、第二回にあたる「ソウル」の組織化の中心を担っていたのは、韓国に住む人たちだった。

この準備の過程で、一つの問題が起こる。イベントに向けて議論を重ねていたチャットルームで、東京のメンバーたちから、「資金集めのためにアジアホストクラブ・アジアガールズバーを開こう」という提案がなされたのだ。この提案と、それに端を発する一連のやりとりについて、植民地主義的、性差別的であるという抗議の声が上がり、「ノーリミットソウル」への参加をボイコットする人たちが続出した。

この時、Dさんは研究のために北京に滞在していた。「ノーリミットソウル」の事務局のメンバーでもなく、組織化の中心にいたわけではない。彼女の中国の友人たちがイベントに参加できるよう、準備を手伝っていたにすぎない。そしてDさんもまた、「ホストクラブ・ガールズバー」の提案については、酷すぎると思った。しかし他方で、自分はボイコットするのではなく、イベントの中で、各国から来る友人たちと、この問題の根深さを考え、議論する場をつくりたいと思った。うまくはいかなかったが、彼女はそれを試みた。

その後、Dさんはボイコットをした人々の一部から、話すこと、会うこと、イベントで同席することを拒否されるようになる。その一人がAさんだった。とはいえ、それがどのような理由でなされているのか、Dさんのどの行為に問題があったのか、説明を受けることはなかった。

渋谷の上映会での出来事の背景には、こうした文脈があった。

上映会の後、Dさんは「反五輪の会」に話し合いの場を設けるように求める。数日後には「平昌オリンピック反対連帯」(以下、「平昌反対連帯」)にもメールを送り、説明と謝罪を求めた。

「反五輪の会」との話し合い

「反五輪の会」との話し合いは、18年12月3日に行われた。かれらの主張は、次のようなものだった。

自分たちは不安を訴えている人をその場で守っただけ。AさんがなぜDさんを怖がるのか、AさんとDさんの間で何があったかについては、何も知らないし、聞くつもりもないし、判断もしない。

何も知らないなら、なぜ山谷の仲間に「事情」を説明できたのだろうか? Dさんは納得できなかった。しかし、対応を問うべきは「平昌反対連帯」だと考えた。自分の説明を聞くつもりはなく、判断もしないという以上、「反五輪の会」とのやりとりは、これで終わるのだろうと思った。

「平昌反対連帯」からの通告

1月13日、「平昌反対連帯」からDさんに回答が送られてくる。そのメールには次のように書かれていた。

自分たちは「強姦文化と家父長的権力と闘うこと」を「基本的な態度」としており、「ノーリミット関連の加害者」であるD氏に対して、「参加の範囲を制限するのは当然」である。上映会での対応は、「ノーリミット当時のD氏の行動についてAが反五輪の会に説明」し、それを受けた「日本側の共同主催者たちが議論を経て」行なったこと。自分たちはこれからも「強姦文化と家父長的権力に妥協せずに対決していく」。

Dさんは、「強姦文化と家父長的権力」に加担する「加害者」と規定されていた。しかし、彼女のどの行為が「加害」にあたるのかについて、説明は一切なかった。

Dさんが韓国で「公論化」を行う

5月1日、Dさんは韓国語で出来事を公表する。運動団体から根拠もなく「加害者」として名指され、これからも対決していくと宣言され、何もせずにはいられなかった。自分は運動の現場から排除され続けるのだろうか? どれぐらいの人たちが、わたしを「加害者」と見なしているのだろうか? 不安と恐怖にとらわれ、運動の現場に行くことがどんどん苦痛になっていった。その一方で、こうした排除が許されるべきではないと思った。

出来事が公表される前に、両者の対話の可能性を探り、仲裁を試みた人たちもいた。その試みは2カ月以上にわたって続いたが、「平昌反対連帯」に拒絶されたため、Dさんはネット上で文書を公開し、「公論化」に踏み切った。詳細な経緯と公表せざるをえなかった理由を示し、「平昌反対連帯」に対しては、みずからを「加害者」扱いしたことへの謝罪を求め、「被害/加害」のフレームを乱用して、不当な排除をくり返さないよう要請した。

「反五輪の会」が「見解」を公開する

しかし、これに応答したのは「平昌反対連帯」ではなく、「反五輪の会」だった。7月19日、「反五輪の会」はDさんの「公論化」について、イベントの主催者として「強い懸念を感じて」いるとして、次のような「見解」を発表する。それは韓国語で書かれ、同団体のウェブサイトに掲載された。

上映会において、AさんはDさんのことを本当に怖がっていた。主催者として、自分たちはこのことを最も重視している。一方、Dさんには「Aさんに話かけようとする意図もうかがえた」。不安を抱えている人に対して、説明を求めるような行為は加害となりかねない。ゆえに当日は、主催団体の正当な対応として、両者に適切な距離を取ってもらった。にも関わらず、Dさんはこの件を、Aさんによる〈排除事件〉として周囲に訴えてまわり、「Aさんの不安や「平昌オリンピック反対連帯」へのバッシング」を煽っている。自分たちはこの一連の出来事について、今後も責任をもった対応をするつもりである。そして、まだ不十分であるものの、「ノーリミットソウル」でDさんが「主催したイベントのことや、Aさんを不安にさせたことについて、多くのことを理解しはじめている」。「私たちは、反五輪の運動を進めるにあたり、性差別・植民地主義の問題を改めて表明していきたい」。

「反五輪の会」と「平昌反対連帯」の一致点

上映会当日の「排除」をめぐって、「反五輪の会」と「平昌反対連帯」の説明は矛盾している。前者は「なかった」と主張し、後者は当然の措置として行われたとしている。

しかし他方で、両団体は、この出来事の核心のところで一致している。それは、根拠をまったく示すことなく、Dさんを性差別と植民地主義に加担する「加害者」として扱うところである。両者にとって、それは前提となっており、理解にたどりつくことができるだけで、その当否が検討される余地はない。

「反五輪国際イベントウィーク」からの排除

「見解」を公表した同日、「反五輪の会」はDさんにメールを送り、「反五輪国際イベントウィーク」に参加しないように求める。「ウィーク」は、「反五輪の会」や「平昌反対連帯」だけでなく、さまざまな運動団体、学術団体が共催するイベントであり、7月20日から一週間にわたって、デモやシンポジウムなどが行われることになっていた。メールが送られてきたのは「ウィーク」が始まる前日であり、まったく突然の通告だった。

「反五輪の会」によれば、Dさんが参加を控えねばならない理由は、Dさんと両団体との問題が「上映会の時より悪化して」おり、「今は適切な距離をとることが必要である」というものだった。Dさんからすれば、話し合いの機会を設けることもなく、みずからを一方的に「加害者」扱いする文書を公開し、積極的に問題を悪化させておきながら、なぜこのような通告ができるのか、まったく理解できなかった。さまざまな団体が共催する公開のイベントから、「反五輪の会」の独断だけで、議論もなく、非公式に排除されることも、納得できなかった。Dさんは、山谷の運動の友人たちも多く参加するデモと、自分の所属する研究所が主催するシンポジウムだけには参加することを伝え、実際にそうする。

当日、「反五輪の会」のメンバーたちはDさんの姿を確認すると、高圧的に対応し、監視をつけ、行動を制限しつづけた。Dさんは緊張と屈辱で、震えが止まらなかった。

韓国で「対策委員会」が文書を発表する

他方で、韓国では、7月24日に「ノーリミットのセクハラ事件解決およびDさんによる虚偽事実の流布中断のための対策委員会」が文書を発表する。内容はDさんの「公論化」への反論にもなっており、タイトルのとおり、彼女が数々の「デマ」を流しながら、Aさんたちへの「加害」を続けているという記述が並べられている。驚くべきことに、「対策委員会」は第三者的な立場を名乗りながら、Dさんに対して事実関係の確認を一切行っていない。

これに対してDさんは7月28日に文書を発表し、「対策委員会」が挙げている彼女の「加害内容」――上映会でAさんたちに会うなり「なにクソ噛んだ顔してんだ?」と大きな声で言った等々――が、そもそもすべて事実無根であると、その場に居合わせた第三者の証言などを示しながら反論した。

「反五輪の会」との二回目の話し合い

8月5日、Dさんと「反五輪の会」との二度目の話し合いが行われる。Dさんの側から要望しつづけ、ようやく実現した機会だった。しかし、彼女はこの話し合いで、「反五輪の会」が彼女の話に耳を傾けるつもりは全くないことを理解することとなった。なにを問いかけても、かれらは自分たちの「正しさ」を一方的にくり返すだけだった。

おわりに

Dさんは、「反五輪の会」とのやりとりのほとんどを、慣れない日本語で行わなければならなかった。加えて、日本社会、あるいは日本の運動界隈に根を張っているわけではない彼女にとって、一個人として運動団体と向き合い続けることも、大きな重圧を伴った。彼女は現在、日韓両国でまったく身に覚えのないみずからの「加害」を反証しつづけてきたことに憔悴し、運動に対する信頼を失い、精神的な衰弱に追い込まれている。

写真:撮影者D                 

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