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本のカバーは日本独自の「恥の文化」?ー元編集者大学院生が、日々立つ書店で気になった着膨れ本とSDGsの足並みを、人類学的に考えてみた話

「本のカバー、おかけしますか?」

書店でこう聞かれたら、あなたはどう返すだろう。

「はい、お願いします」
「いいえ、結構です」
「袋は有料?じゃあ、いいです。カバーは、無料ですか?じゃあ……」
「自分でかけたいので、冊数分全部ください」

「カバーだけください」

書店に立っていると、おおむねこのような返答がある。レジ袋が有料化されたこともあり、そのまま持ち歩くのもなんだし、カバーは無料サービスならと、肌感覚では来店される9割方のお客さんがカバーを希望される。

日本の書店じゃ見慣れた当たり前の光景も、異国にルーツをもつ友人からすると、なんとも奇妙に映るらしい。

「ねえ、日本のひとって、何読んでるの?porn(ポルノ)とかなの?」

思わず唖然とし、しばし無言の後、思わず笑ってしまった。書店で働いていると言うと、わたしと同じ大学院に在籍する留学生数名から、こう聞かれた。満員電車で痴漢も多いことと、電車でカバー付きの本を読んでいるひとを見かけることとは、なにか相関関係があるのかと。なるほど……。十分立派なカバーがついた既成本の表紙を、更に書店のカバーで隠してまでわざわざ公共の場で読みたいとは、何事だといのうだ。海外では、ペーパーブックに代表されるように、そもそもカバーがついておらず、いわゆる日本の書籍の本体だけのものが多い。 

着膨れした本

日本では、「ダブルカバー帯」というものも存在する。例えば、新書のカバーの上に、さらに出版社が宣伝広告用にもう1枚別のカバーをかけている場合、本体に複数枚のカバーがかかっていることになるのだ。

さらに書店オリジナルのブックカバーをかけるとなると、その本はなんとも重ね着をしているみたいな、やや着膨れした本となる。いつもこうした局面に出くわすと、十二単衣の着付けなんかはこんな感じだったのかなあ、本も肩とか凝らんのだろうか、などと呑気に考えてしまう。

最近では、電車や公共の場でスマホやタブレット上で電子書籍を読むひとも増えた一方、意識してみていると、カバーをせずに本を読んでいるひとはあまり見かけない。そもそも、本を読んでいるひとの姿をあまり見かけないという寂しさもあるのだけれど。

SDGsの文脈で一層促進されるようになったマイバッグ。各小売販売業の現場でも呼びかけるようになり、過剰包装回避につながるかと思えば、依然無料で、あくまでもサービス品のままのブックカバーはほんとうに出番が多い。いつもご苦労様です、なんて声をかけて労いたくなる。最近では、多くの書店が各自治体推進のSDGs加盟店的な構えを、表向き上は貫いている。わたしが働く書店も例外ではない。そこで、だ。そもそも、カバーって、ほんとうに必要なのだろうか。

「カバーも有料にしたほうがいいよ」

カバー不要派の常連さんは、常々こう言う。そこまでカバーを重要視していないのに、「無料ならば」と、その場の流れで何の気なしにもらっていくものの、結局は捨てているひとも多いんではないかと。紙資源削減も考慮すると、なんでもサービスの名目のもと配りすぎるのはよくないのではないか。そもそも、そんなにサービスをしてしまうから、カバーをかけるのにも時間がかかり、おたくのレジも混んでしまうのではないか。なるほど。

「無料のもの、一通りもらえますか」

一方で、カバー必須派や、無料万歳党のお客さんのなかには、こういうひともいる。コミックスや、あまりカバーの必要性を感じないような薄めの雑誌、全冊分のカバー、冊数分のしおり、本を束ねる輪ゴム、余分の雨除けカバー……。ここまで、多くのサービス品を提供している業態もなかなかないのではないだろうか。本は紙もので、むろん雨天時には濡れないよう細心の注意が必要だし、取り扱いに神経質になってしまうのも頷けなくはない。

「お店のカバーが購入の印になるから」

他にも、こういうひとがいる。レジ袋は不要で、マイバックに入れて持ち帰る際、購入の証になる、と。書店オリジナルのブックカバーがかけてあれば、万が一の場合でも安心じゃないかという意見だ。ふむ。

「大事に扱いたいから」
なかなか本を購入する機会が多くはないお客さんのなかには、「せっかく買ったのだから丁寧に扱いたい」という方もいる。記念品を買い、ギフトラッピングしてもらうかのように、大切に。一方で、常連さんで多読家と思しきお客さんほど、「どうせすぐ読むし、どうせ汚れるし、カバーはいらんよ」とおっしゃる方が多い。非日常として、それぞれの本をかしづく対象としてみなしているというよりも、むしろ日常生活の一部にすでに溶け込んでしまっているような。日用品だし、そんなに繊細に扱わなくともいいんよ、という構えになりやすいのかもしれない。

たしかに、週末や繁忙時間帯の大量カバーがけはかなりのものがある。カバーを希望するお客さんには、混雑緩和やコロナ対策のためにも設けられたセルフレジに並ぶという選択肢も念頭にない場合が多い。セルフレジのほうが空いていたとしても、(きっとここでは本のカバーをかけてもらえないだろう)との前提がどこかにあるのかもしれない。でも、そこまでして本のカバーがほしくて有人レジの長蛇の列に並ぶ。他チェーンで働く書店仲間らと話していると、こんな光景はさまざまな書店でけっこうデフォルトと化しているらしくもある。

こんな話を一通りしたところで、フランスからの留学生がこう言った。

「わたしたちなんて、口にするフランスパンすらそのまま素手で持ち帰るくらいなのに!」

彼女いわく、カルチャーショックだという。それがいわゆる「おもてなし」に包摂されるような「サービス」だとしても、トゥーマッチなんではないかと。度が過ぎてやしないかと、皮肉を込めて肩をすくめてみせた。

たしかにサービスとはいえ、ばかにならないほどの紙が、経費が大量消費されている現実は無視できない。詳細は省くが、なかなかコストもかかる。

「恥の文化」?

日本文化論を記した名著『菊と刀』で知られる人類学者のルース・ベネディクトは、西洋と日本の文化の型を比較した。個々人の道徳基準によって行動する西欧型のパーソナリティが「罪の文化」とすれば、他人の批判や嘲笑を恐れて行動する日本型のパーソナリティは「恥の文化」だと指摘した。

当時、なかなか日本でのフィールドワークができなかったにせよ、文献調査やインタビュー結果をもとに、個々人や社会の心理を関連付けて考える洞察力とその力量には、感服する。

言われてみれば、「大人が電車で漫画を読んでいるなんて」という、ある種、他者からの視線を内面化した「恥の文化」がそうさせている面もあるのかもしれない。実際、コミックスを大量購入されたサラリーマンと思しき方と偶然帰途の電車で居合わせ、書店オリジナルのカバーをつけた漫画をせっせと読む姿を見かけたことがある。

肌感覚の"cover"

あと、これは来生統計なのですけど、エロ系漫画や、「TOEIC◯◯点突破!」などと銘打っている資格試験系のカバーかけてください率は群を抜いてダントツである。大学院で人類学をかじっているので、どうも参与観察のようなモードに突入してしまう。ああ、なんともやな店員だ。

そもそも、カバーとは、"cover"を由来としている。覆うとか、隠すとか、包むとか、そんな意味がある。自分が読む本に対するうしろめたさだったり、無意識のうちにでも内面化しすぎてしまった他者の視線がcoverさせているのだとすれば、それもなんとも悲しい。

「"Japan quality" で、そもそもが高品質な佇まいの本なのに、あえてそれを隠してしまうなんて、ナンセンスだよね」

そう話すお客さんもいた。その方は、カナダ出身だった。

日本的な気遣い?

ただ、日頃お客さんと接している肌感では、(やはり向こうからのサービスを無下に断るのも……)と、条件反射的に「はい、お願いします」とカバーをお願いされる場合も多い気がする。もちろん、レジで開口一番「カバーだけください」というひともいる。

わたしは、ちょっとシリアスで過激な印象をもたせる表紙だったり、ルポ系のコミックスだったりする場合には、帰途の電車で本のカバー自体を裏返し、本来は裏面でひと目には触れない白い面が表になるようにして読むので、書店でカバーをしてもらった記憶があまりない。セクシュアリティやジェンダーに関わる領域に携わっていると、どうしても過激な表紙の本もでてくるので笑、その際には、以前書店でもらっただろう手持ちのカバーを繰り返し再利用するようにしている。  

これは、わたしがどのような本を読んでいるのか、周囲からの目線を気にして、というよりも、どちらかというと周囲への配慮というか、あまりよく思わないひともいらっしゃるかもと、お子さんなどの目を気にしたり、いわゆるモラルに近いものなんかもあるかもしれない。

なにも声高に美化委員のようなことをいいたいのではなくて、この文化の差異というものが面白く感じられたのも、やはり異なる文化圏の人々からの視線が交錯し合うからなのだと思う。

交錯するまなざしを通して文化をみる

意識する視点がどこなのか。そのズレが面白くもあり、そのひとの見方によっては奇妙に映り、おかしくもあるのだ。なかなか国外へ足を運べないいま、このズレみたいなものを感じにくい気がしていたのだけれど、日本以外にルーツをもつ人々のまざなしを通してみれば、ささいな日常にもずっと多く潜んでいる。

「日本の文化」とはいえ、さまざまな人々がいる。いわゆる類型化は確かにある種の見通しや指標にはなろうとも、万能ではない。すべてカテゴライズしようもないけれど、相手を知ろうとするときの手助けになってくれることもある。こうした暴力性にも自覚的でありつつ、でも視点をずらす余地をもたらしてくれる瞬間というのは、日本にいるだけでも十分こんなに、あったのだ。東京にも、あったもんだ。なんだかそんな曲もあったな。

毎日がフィールドワークだと思って、こんな感じで、今日も書店に立っている。SDGs的な文脈と紙のブックカバーはいかに折り合いをつけられるのか。どうのようにして足並みをそろえられそうなのか。いや、もはやそろわなくたっていいのか、そろいようもないのか……。カバー論争は、つづく。

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