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勉強しなさいって言わなくても勉強する子にどうやって育てたの?(13)

●親が一生懸命に生きること

「大人って、もう勉強しなくていいんじゃないの?ママはどうして勉強するの?」

資格試験に向けて勉強していた私は、当時小4の娘からこんな質問をされました。そんなことを考えて私のことを見ていたのか、と改めて思いましたが、真剣に答えました。

ママはね、Kちゃんが生まれる時に仕事を辞めたの。でもそのときからずっと、また仕事がしたいと思っていたの。Kちゃんが生まれるときに辞めることはママが自分で決めたのね。その頃は赤ちゃんがいて仕事を続けるのは難しかったからね。

でもね、女の人が一度仕事を辞めると、また前のように正社員で働くことはなかなか難しい世の中なの。それにね、ママはまだ何がしたいのかよくわからないところもあるの。

だから、ママは何がしたいか考えながら、いつか少しでも自分がやりたいことに近づけるように資格を取ろうと思って勉強しているの。大人になっても勉強することはたくさんあるし、勉強すればそれまではできなかった仕事に就くことができるようになるかもしれないからね。

そして、さらに続けました。

ママはね、小さい頃、将来何になりたいとかあんまり思わなかった。幼稚園でも小学校でも聞かれるでしょ?あれって困るよね。だいたい世の中にどんな職業があるのかなんて知らなかったし。それに、ママが小さい頃はママのお母さんはずっと家にいたから、女の人が働くってこともよくわからなかった。

でもね、高校生の時に『建築士になりたい』って思ったの。ママはね子どもの頃から家の間取り図とか見るのが大好きだった。おじいちゃん、大工さんだったでしょ。おじいちゃんが書く設計図はすごくきれいで、手書きなのにそうは思えないくらいだった。おじいちゃんは字もきれいだから、設計図だけじゃなくて字まで含めて全部が美しかった。

ママが小学1年生くらいのときに、おじいちゃんが自分が建てた家を見に連れて行ってくれたことがあったの。その家を建てる人がね、よく夜に家に打ち合わせに来ていたの。家に図面がおいてあったりしてね、その家の図面も見てた。その家をね、引き渡しの前に見に連れて行ってくれたの。

平面で見ていたものが立体になって目の前にあることにわくわくした。だからなのかな、小学生の頃からおじいちゃんの建築雑誌をたくさん見ていた気がする。でもね、小さい頃は女の子が建築士になれるなんて思ってなかったし、そもそも一生働くとか考えたこともなかった。

高校生の頃、将来何になりたいかって考えたら唯一思い浮かぶのは建築士だったんだけどね、建築士になるために工学部の建築学科に行こうと思ったら、試験科目に数学があるのね。ママは数学が苦手で、それで諦めた。

諦めたっていうか、その頃はずっと働いていこうっていう覚悟もなかったから、目標に向かって何が何でも、って強い気持ちがなかったのかもしれない。でも、数学が苦手じゃなかったら、チャレンジしていたかもしれないと思う。

だからね、Kちゃんは大きくなってなりたいものが見つかった時に、苦手な科目があってその道を諦めるようなことにならないように、しっかり勉強しておいたほうがいいよ。今勉強していることは全部自分の将来に繋がっていくからね。勉強は自分のためにするのよ。

それとね、おじいちゃん、結婚した頃、1級建築士の勉強をしていたらしいの。2級建築士は持っていたんだけど、1級の勉強をしていたのね。仕事しながら家族もいる中で資格を取るための勉強するのって大変よ。結局、思うように勉強できなくて諦めちゃったみたいだけどね。

だからかな、ママは、勉強しよう、資格取ろう、って思ったときは、何が何でもやってやる、みたいなところがあるのかもしれない。思ったときにやりきらないと、「あとで」なんてもう無いんだ、無理なんだ、って思ってる。

この話をしているときに、もう一つ思い出して娘に話したことがありました。

私が幼い頃に見に行った、この家の主であるHさんから、阪神淡路大震災発生から数週間が過ぎたある日、電話をもらいました。

激震地で被災した両親は、水道も電気もガスも止まっていて余震の続く中、小学校の体育館に避難していました。当時は携帯電話など持っていなかったので、連絡先として我が家の電話番号を書いた紙を、自宅に貼っていました。その貼り紙を見て、わざわざ電話してくれたのです。

「うちの周りの家は全部潰れました。両隣も、お向かいも裏の家も、みんな潰れてしまいました。それなのに、うちだけはびくともせずに建っていたんです。お父さん、家が完成して私に鍵を渡してくれるときに、『この家は、どんなに大きな地震がきても潰れません。100年はもつように建てましたから。』っておっしゃったんです。私は、地震なんて来るはずがないと笑って聞いていたんですけど、お父さんの言った通りでした。あの大きな地震にもびくともしませんでした。お父さんに建ててもらって本当によかったです。」

これを伝えるために、電話をくれたのです。

あの忌まわしい震災さえなければ、と何度も思いました。でも、この電話をもらわなければ、私は一生このことを知らずにいたでしょう。

娘に言いました。将来、どんな仕事をすることになるかわからないけど、どんな仕事をしても、何かをごまかしたり手を抜いたりしないで、全力で取り組まないとね。これくらいバレないと思ってずるいことをしても、必ずあとでわかるようになっているのよ。おじいちゃんの仕事が素晴らしかったこと、震災で証明されたね。


出産のために銀行を退職した後、「将来私は何をしよう」といつも考えていました。

考えはするものの、目の前には子どもがいて、毎日は自分の思い通りにはなりません。このままずっと私には社会との接点がないのだろうかと不安になることもありました。

仕事をするようになってからも、「もっとやりがいのある仕事はないのか。何が自分にはできるのか。いったい私は何がしたいのか。」そんな思いをいつも抱いていました。

不安を少しでも解消するために、仕事をしながら、ひとまず何か資格を取ることにしました。元銀行員、金融に関する知識は人よりはあるはず、なんとなくまずはFP2級(ファイナンシャルプランニング技能士2級)にしようと決めました。

本屋さんでテキストを購入してパラパラとめくってみると「1ヶ月くらい勉強すれば受かるかしら」と思いました。すぐに直近の試験の申し込みをして、にわか勉強で受験しました。

見事に落ちました。

受かると思っていたものに受からないと、俄然むきになります。今度は計画を立てて勉強を始めました。

銀行員時代に宅建の勉強をしていたころのことが、脳裏によみがえってきました。朝、仕事に行く前の30分、夜、子どもを寝かせてお風呂に入った後の10時から夜中1時が毎日の勉強時間でした。この生活を3ヶ月続けて、2回目の試験で合格することができました。

FP2級には合格したものの、さて、次はどうするか。資格ばかり取っていてもどうしようもないのですが、取らないよりは取った方がましです。次はFP1級か社会保険労務士、どちらかを目指そうと思いました。

時間的な制約もある、自分にかけることのできるお金にも制約がある、やはり独学しかありません。本屋さんでFP1級のテキスト一式を購入しました。

3回受験しましたがあと一歩のところで不合格。点数的にはあと一歩でも、その「あと一歩」が大きいのですよね。毎回、準備不足を自覚しながら受験していたので当然の結果でした。

そのうち、持っているテキストでは法改正に対応できなくなって諦めてしまいました。心の中では「資格を取ってどうするのか、取り立てて目標があるわけでもないし」と言い訳しながら。

そんなある日、「ママ、数学者ってどうすればなれるの?」と息子に質問されました。図書館で借りてきた「秋山仁先生のたのしい算数教室」の秋山仁先生の紹介に「数学者」と書かれていたからでしょうか。

数学者の知り合いは私にはいません。そもそも、どうなれば「数学者」と誰もが認めるのでしょうか?よくわかりませんでしたが「そうねぇ、大学の先生になったら数学者って言われるのかなぁ」とその場は答えておきました。

娘も中学生になり、子育てが一段落してきたことを実感し始めた頃、今後の自分の仕事についてそれまで以上に思いを巡らせるようになりました。そんなときに、大学の人事部門での給与事務の求人を見つけました。

大学の先生ってどうやってなってるんだろう??
そんな単純な興味と、ずっと頭の片隅にあった社会保険労務士資格。この求人をみたときにそれが一致し、「実務を経験しながら社会保険労務士の勉強をする。そして、大学の先生の採用の実情を垣間見る。」という選択肢が現れてきました。

年度途中の10月採用で筆記試験は7月下旬、筆記試験通過者の面接は8月、採用者数1名、募集要項には「給与事務経験者尚良し」の文字。しかし、私には給与事務の経験はありません。

武器は銀行員としての経験、そして、FP2級の勉強をする中で社会保険や労働保険に興味を持ち、社会保険労務士の勉強を始めようと思っていること、FP2級の勉強の中で所得税や住民税についても基本的なことは学習したこと、これだけが「給与事務」の仕事に応募するにあたっての志望動機です。

筆記試験の会場には、第2新卒かと思われる若い女性の姿もあり、何とも中途半端な年齢の私に可能性はあるのかと不安になりましたが、無事に筆記試験を通過。

面接当日、私が出会った限りでは筆記試験通過者の年齢層にはバラつきがあり、これは純粋に試験の点数で切ったのかと推測。面接は若干の手ごたえがあったものの、不安の中待っていると、思いがけず採用の連絡がありました。

こうして、社会保険労務士の資格取得に向けて勉強を始めるべく、大学の人事部門での採用が決まったのでした。ただし、契約職員(月給、賞与あり、有期雇用)という立場ではありましたが。

本当に、女性が出産などで退職したあとに正社員で働くということは難しい世の中です。しかし、ワークライフバランスを重視して、「正社員」という選択をしない女性も一定数存在することも事実ではないかと思います。

実際、私は「正社員」にこだわってはいませんでした。「契約職員」ということで、もしも「それほど残業が多くない」という状況を手に入れることができるのであれば、正社員という安定よりも、ワークライフバランスを選ぶという気持ちでした。

しかし残念ながら、その職場ではおそらく「正社員と同じ仕事をさせて同じ責任を負わせる、正社員よりも経済的な存在」として契約職員を位置づけていたので、契約職員だからワークライフバランスが考慮されるなどということはありませんでした。

時期にもよりますが、銀行員時代を思い出させるような時間までの残業もありましたし、「契約職員の私にこんなにまで任せていただけるのですか」と感謝するほど多くの仕事を任せていただくことができました。

それでも、自分の中に目標があるので、私には大変意義のある職場でした。「どんなに嫌なことがあっても、社会保険労務士試験に合格してからここを辞める」これが私の次の目標となりました。

通勤の車の中では講義CDを聞き、昼休みはお弁当を食べた後で大学の図書館に行って30分ほど勉強しました。夜は家事を片付けた後、通信教育のテキストを読み、課題をこなしていきました。

それでも時間が足りないので、朝ごはんの時も講義CDを流し、晩ごはんの準備の最中も講義CDをかなりの音量でかける(水の音や換気扇の音で講義が聞こえないからです)、掃除機をかけるときは、ウォークマンでイヤホンをして講義を聞きながら、と使えるすべての時間を勉強に費やしました。

子どもたちには、いい迷惑だったかもしれません。「労働基準法」などの解説を聞きながら朝ごはんを食べなくてはならないのですから。でも、その講義の内容に聞き入り、時には「へぇ~なるほどなぁ~」と呟いていることもありました。

娘は時間があるときには夕食を作ってくれたり、息子も平日には相変わらずご飯を炊いてくれたり、時にはお味噌汁まで作っていてくれたりと、できる限りの協力をしてくれました。


結果的には、私の計画では1年で終わるはずだった受験生活は、3年間続くことになりました。

最初の不合格通知を見たときは「この生活をあと1年続ける」という恐ろしい決定を、愕然とした思いで見つめました。3年目にしてやっと、自己採点した段階で「まず合格しているはず」という確信を持って合格発表を待つことができました。


毎年、試験直前の1週間は、少し遅れた夏休みを取って試験勉強だけに集中することにしていて、子どもたちには私の実家で過ごしてもらうことにしていました。

当時、夫は単身赴任をしていたので、子どもたちがいなければ家事の時間を大幅に削減できます。でも、3年目のその年、子どもたちは家で過ごすことになりました。

「1週間、ママはごはんを作ってくれなくてもいい。自分たちで何とかする。ママの勉強の邪魔はしない。」全面的な協力体制です。

日頃の勉強の様子は3年間散々見てきたはずですが、試験直前の私を子どもたちが見たのは初めてでした。起きている時間で、食事、お風呂などの必要最低限の時間以外はすべて、わき目もふらずリビングの隣の和室から一歩も動かない私には近づかないように過ごしてくれていました。

二人がリビングにいる時には、私に声が届かないようにひそひそ声で話します。娘は、弟に手伝わせながら毎日晩ごはんも作ってくれました。

そんなある日、息子が「ママ、すごいな。よくそんなに集中力続くよな。」と言いました。「時間ないもん。いくらやってもまだ足りないもん。」「それにしてもすごいわ。何時間そこに座り続けてる?」黙って見ているんだなぁと思いました。

娘も息子も、受験生のときに「しんどい」なんて一度も言ったことはありませんでした。自分の目標に向かって勉強するとき、「しんどい」なんて言っている暇はないし、どこかでほんの少しでも「あの時のママのほうがよっぽどしんどいよな」と思ってくれているのではないか、そんな風に思ったりします。

想定していたよりも随分長く時間がかかってしまいましたが、ひたすら頑張っていたママの努力を一番認めてくれていたのは子どもたちだと思っています。

(次回は「●おわりに」)

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