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【第2回】天平の至宝 四天王と十二神将

執筆:桂田 菊嗣
   大阪急性期・総合医療センター名誉院長
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 もし天平彫刻のナンバーワンはどれかと問われたら、躊躇した末に、戒壇院四天王と新薬師寺十二神将と答える。

 東大寺境内に戒壇院(堂)というお堂がある。奈良時代に僧鑑真が聖武天皇らに戒を授けたのが始まりである。お隣の大仏殿のほうは大勢の観光客で混雑しているのにこちらはうそのようにひっそり静まっている。

画②1戒壇院

東大寺戒壇院:江戸時代の職人が在りし日の戒壇院を想像して再建したのであろうか。裳階のある二重の屋根に付きだし(向拝)があり、禅寺にみる花灯窓もある。裳階はもとは雨風からの防御のためであるが、外観の優美さを助けている。大仏殿にも、興福寺や法隆寺の諸堂にも見られる。この内部に名宝四天王像が立っているとは誰が思うであろう 

 堂内に足を踏みいれると冷気の中に張り詰めた緊張が満ちる。なんという静けさか。須弥壇には多宝塔の周り四方に等身大の塑像の四天王が立つ。手前側にある持国天と増長天は大きく眼を開いて激しい怒りを見せ、後ろ側の多聞天と広目天は目を細めて厳しく睨んでいる。4体の迫真の立ち姿は動と静の見事な対照を見せ写実の極致と言って過言でない。踏みつけている邪鬼も表情は真剣でもユーモラスである。この像を制作したのはどんな人だったのだろうか、どんな意図と気概を持って造形したのだろうか。ここに奇跡ともいえるような天平の花が1300年近く咲き続けている。

40四天王

戒壇院四天王:中央の多宝塔を囲んで持国天、増長天、多聞天、広目天が並び立つ。眼を大きく開いて怒っているのと、目を細めて怒りを秘めているのと対照的である。仏法を犯すいかなるものも寄せ付けぬぞと威嚇している

画②3広目天像

広目天像:本尊の左後方に立つ像である。怒りを内に秘めながら射すくめるような眼差しで鋭く見張るように立っている。この天だけは武器ではなくに筆と巻物だけを手にしている。われわれに悪業あらば漏らさず記録するぞとの閻魔帳であろうか。このような芸術作品を絵に画くなど冒涜というものである

 四天王は、元来は仏教界須弥山中腹で四方に住み仏法を守る4人の鬼神であった。東大寺法華堂や興福寺、唐招提寺にも見られる。大阪には聖徳太子が建立した四天王寺がある。さきの大戦の空襲で焼失し戦後再建された鉄筋コンクリートの金堂にも昭和の四天王が立っている。はるかのちの世には優れた部下やある領域の達人4人をさして四天王と呼ぶようになったのはご存じの通りである。

 奈良を訪れたとき足はつい高畑まで伸びる。新薬師寺があるからである。

 市内循環バス「破石町」から坂道を上る。春日山の麓にある高畑は柳生街道の入り口にあたる古い町で、今でも荒格子や虫篭窓を備えた中二階建ての民家が少し残っている。人声も聞こえてこないものさびた町である。と突如新薬師寺の土塀が現れる。名は似ているが西ノ京にある薬師寺とは別物である。ルーツは光明皇后が聖武天皇の病気平癒を祈って建立されたものでかつては七堂伽藍を配する大寺であった。会津八一は「すめろぎのおほきめやみをかしこみと とほききさきのたてまししてら」と詠んだ。いま見られるのはさして広くない境内に建つ本堂だけであるが、奈良時代の建造物としてきわめて貴重な存在である。京都の寺々のように、決して飾らず、誇示せず、自己主張をしないのがなんともいえず奥ゆかしい。「蒼玄」という形容がふさわしい(「蒼玄」は小学校時代の恩師が奈良―大和を形容するために作られた言葉であり、辞書にはない)。

256薬師寺

新薬師寺本堂:奈良時代には本尊を納めるお堂は金堂と呼ばれ、本堂は平安以降の呼び名である。創建時の金堂ではなかったお堂なので後世に本堂と名付けられたのであろう。入母屋造りの瓦屋根で、屋根はなだらかな曲線を描き、天井板はなく組み物も単純という実に簡素なお堂である。中に立つ十二体の神将の一つ伐折羅(きばら)大将は眼を大きく開いて睨みつけている

 堂内に薬師如来の眷属である十二神将が並んで立っていて、その雰囲気は荘厳である。

 十二体の神将はどの像も鎧で武装したうえにいろいろの武器や宝棒、戟などを持ち、腕を上げ体を反って激しい怒りの態度を表している。なかでもお気に入りが伐折羅(バサラ)大将で、髪は逆さ立ち、目と口は大きく開いて睨みつけ、何物も寄せ付けないという表情を見せる。色鮮やかな文様がかすかに残る。戒壇院四天王と同じ奈良時代特有の塑像で、それが造形を自由にして写実性を高めているものと思われる。こちらのほうがやや小ぶりながら動きがより大きいのは制作年代が少し下がるからであろうか。

 十二神将は薬師如来を十二の月、十二の方角で守護する武神である。国宝の十二神将が、興福寺東金堂と国宝館、京都の広隆寺などにもあるが、新薬師寺のものは日本最古の奈良時代唯一の十二神将である。

画②5新薬師寺堂内

新薬師寺堂内:思わず息をのむような静かな緊張を生む堂内である。ゆっくり歩いている靴音が響く。十二神将はもともと薬師如来の守護神として脇に立っているが、神将と現在の薬師の制作年代は異なる(薬師のほうが遅れる)

迷企羅とアニラ

迷企羅(メキラ)とアニラ:新薬師寺十二神将のなかから無選択に2体を選んだ。十二体それぞれには3文字の難解な漢字の名が付けられている。梵名が無理に漢字にされたようである

 帰途は、誰が名付けたのか「ささやきの小径」と呼ばれるみちを通って春日大社方面に降りる。余韻にひたりながら。

画②7ささやきの小径

ささやきの小径:人の手が入ったことのない春日の原始林である。木漏れ日のさす鬱蒼とした森林のなかのみちで道標に「下の禰宜道」とあった。かって高畑には春日大社の禰宜(ねぎ:神官)たちの住まいがあり、彼らがこの小径を往来したのであろう。季節には馬酔木の花で埋まる。そういえば奈良には馬酔木が多い。毒があって鹿が食べるのを嫌うのが原因だという

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【著者プロフィール】
救命救急医療の実践のかたわら、三次救急医療機関(のちの救命救急センター)の確立とわが国の救急医療体制(一次・二次・三次の機能分担)成立への模索、同時にプレホスピタルケア(いうならば病院前の救急体制)の拡充のための救急隊員教育の体系作り、その延長上での救急救命士教育へのかかわり
【経歴】
昭和35年  大阪大学医学部を卒業
昭和37年  インターンの後、大阪大学医学部附属病院第二外科にて研鑽を 積む
昭和42年  同病院特殊救急部創設に参加(救命救急医学の研究・診療に従事)
昭和49年  大阪府立病院部長に就任(全国初の救命救急センターを設立、重篤な救急患者の診療にあたるとともに、救急医療体制の整備、全国救急隊員教育の拡充等に貢献)
平成11年  同病院病院長に就任
平成14年  大阪府北大阪赤十字血液センター所長に就任
 現在は、大阪府北大阪赤十字血液センター検診業務、救急救命士養成教育、老人介護保健施設管理などに従事

2020年に発刊された『救急救命士標準テキスト第10版』(へるす出版)の編集顧問を務める

救急救命士テキスト10e_H1_h1200(web-big)

近著:救急救命士国家試験問題集ではなく、救急救命士という職業人のためにつくられた、今までにない”新しい”問題解説集

救急救命士実践力アップ119』(へるす出版)

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