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印象 東ドイツの地下壕

 初夏、思ひ立ち、僚友に同道を乞うてベルリンに向つた。中央驛にて貸自動車を索めたが生憎と拂底してをり、鐵道でポツダムに赴きやうやく車を得た。
 幹線道路を走つてベルリンの喧騷を抜けると、やがて森林地帶となる。しばらくして支線に折れ、鬱蒼たる木々を拓いた道を案内に從ひ更に奧へと進むと、不意に人工物が現れ、目的地に着いた事を知つた。

 集合場所は敷地を圍ふ鐵柵の一端に設けられた門の前だつた。三十年近く前に消滅した國家の旗が、小暗い木立の中に聳える竿から下がつてゐる。守衞所に人影はないが、場所柄、往時は出入の取締に嚴重を極めたことが想像された。
 地下壕の見學には管理團體を通じた電話豫約が必要だつた。口頭で日時を傳へられるのみだが、行つてみると確かに他にも車があり、手持ち無沙汰に案内を待つ人の姿がある。我々の他は皆ドイツ人だつた。しばらくすると案内人が現れた。短髪の大柄な人物で、統一前は軍に勤めてゐたといふ。彼について門を入り、歩き始めた。

 現在、ドイツ政府から史跡保護の對象とせられてゐる舊東ドイツ(ドイツ民主共和國)の地下壕は、西側諸國との全面戰爭に際して國防省の指令部機能を地下に移轉するため、東西冷戰の最中に莫大な費用と資材を費やして極秘裏に建造された。地下部外壁は厚い装甲で覆はれ、地上の核爆發に備へて設計されてゐた。
 有事には、國防省及び國家人民軍(NVA)指導部が地下壕に移動し、他の地下據點と連絡しつつ地上の軍を指揮する計畫だつた。
 貯水、食糧、通氣機構、除染措置により、數百名の要員が四週間、外界と隔絶された状況で生存することができた。

 僞裝された地上建屋から地下に通じる階段を降りた。初夏だったが、防寒着を持參するやう案内されてゐた理由が分かつた。常は分厚い鐵扉に閉ざされた内部は、冬のやうな寒さだった。老朽により處處で塗裝が剝がれてゐる薄暗い隧道を抜け、中心部に入る。

地下通路

 退役軍人の東道により構内を巡覽し、廣大な生活空間の管理と指令部機能の管制とに必要な、當時の最新技術の粹を集めた機器の數數がまづ目についた。管制室の操作卓や、機械室に櫛比する磁氣帶式記錄裝置は往年の未來映畫さながらだつた。

管制室の操作卓
管制室
卓上計算機
記錄裝置(Bandspeicherwerk)
記錄裝置は、光學機器で著名なカール・ツァイス製

 生活空間は、國防大臣の執務室から食堂、下級要員の共同寝室に至るまで、狹く簡素なものだつた。最長四週間の期限付き宿泊、かつ地上の慘事を思へばこれで十分以上といへる。

高官の居室には、ホーネッカー書記長の肖像寫眞が懸かつてゐる。
核戰爭の中、花柄の壁紙を背に束の間の休息を取る。
下級要員の吊下げ式寝臺
醫務室
食堂には、當時の保存食品が展示されてゐた

 分けても、地下壕中樞に位置する作戰室が印象的だつた。軍指導部の座席に向ふ壁面に歐州中央部の地圖が置かれ、天井からは六臺の受像機が掛けられてゐる。部屋に入ると、案内人が地圖の前に位置取り、NATO軍との戰爭計畫について、今將に起らんとするかの如く、先制攻擊と防衞戰の場合とに分けて説明してくれた。「我々」と「敵」との戰ひについて語る時、彼は統一ドイツにゐる事を忘れ、かつて存在した故國を生きてゐた。
 受像機は、世界各國の放送を受信するためのものだといふ。戰況を傳へる局員は、終局の豫感とともに原稿を讀みながら、何を思ふだらうか。

作戰室

 東西兩陣營による核戰爭が現實の脅威だつた時にあつて、東ドイツには政府要人、軍司令部、情報通信機能等を保護するため、核爆發に耐へ得る地下壕が各地に造られてゐた。最高權力者たるホーネッカー書記長は、戰爭勃發の報(或いは先制攻擊に係るソ連からの通達)を受け、慌ただしく地下壕に退避した後、極度の不安の中で忙殺されながらふと我に返ると、西側で同じ状況に置かれてゐる敵將にいひ知れぬ親しみを感じ、心中で語りかけただらう。
「俺達の四十年の苦勞は全て無駄だつたのか?俺達は、どうしても最後に穴藏の中で終はる運命なのか?」

 最惡の事態が回避され、不氣味な記念碑を殘すのみとなつたのは幸ひだつた。


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