見出し画像

偸兒の話

 ある國で強盗に遭つた話。
 南半球の夏の始め頃、高級住宅が建ち竝ぶ丘を控へ、首都を南北に貫く大路に面した宿に到着間もない不知案内の身を置き、無聊の日々を送つてゐた。割り當てられた假寓は五階建の宿の一室で、短期滯在者の當座の用に供するための、手狹な間取り。構内は電流が走る高い鐵柵で圍まれ、出入には電子鍵が必要だつた。
 窗から外を見やると、晴れ渡る昊天の下、生氣の無い草木の間に家屋が點在する寂寞たる風景が開ける。自動車の往來はあるものゝ、人影は日中でも疎らだつた。
 無爲を讀書で紛らし、窗外に一直線に行き交ふ自動車の列を眺めてゐる内、ふと周邊を散策してみる氣になり、宿舎の入口を守る警備員に適否を問うてみた。外國人が徒歩で外出するには注意が必要だが、日中ならば安全だと云ふ。そこで、晝の内に大路の南方にある交叉點に面した商業施設まで歩いて行くことにした。
 表は室内から見るのと異ならず閑散として、丘に面して小綺麗な住宅や事務所が軒を連ね、車道の反對には、廣く雜草に覆はれた空地の先に人家や料理店が見える。やはり人通りはなく、誰にも遇はないまゝに施設に辿り着いた。持ち出した寫眞機で何齣か撮つた後、構内の駐車場に踏み入つた。車は少なく、廣い敷地には施設に出入する買物客や、食品を扱ふ露天商の姿が見える。皆黑人だつた。
 樣子を眺めてゐる内、視界の外から不意に現れた少年に呼び留められた。服も履物もひどく汚れてをり、土埃の薄い層を纏つた樣。「金をくれ」と言ふ。年少の物乞ひに特有の、當然の物を請求するのだと云ふ、幾度となく耳にしてきた世の總てを恨む口振り。「金は無い」と對へた。實際に、元ゐた國から來たばかりで、現地通貨の持ち合はせは無かつた。彼は噓だと捉へたらしく、遽に樣相を變じ、懷から折り疊み式の小刀を拔いて、刀身を覆ふ赤黑い染みを指し示し、「これが見えるか。プリズンには行きたくない。金はどこにある」。
 面倒なことになつたと呆れつゝ、周圍を見渡すも人影は依然疎らで、此方に注意する者は無く、救ひを求むべき警備員の姿も見えない。少年は目に見えて昂奮してをり、プリズンには行きたくないを繰り返しつゝ、刀を持つ手を忙しなく動かし、次に來る擧が豫測できなかつた。
 「金はこゝには持つてゐない。宿に置いてきた」と言ふと、それならばと宿への同道を求められた。いよいよ昂奮の度を增す偸兒を前にこの場を隱便に切り拔ける當てがなく、觀念して從ふことにした。駐車場から大通りに出る道すがら、彼は仲間と思しき少年に向かひ、部族語で大聲に喚ばはつてゐた。やり取りは理解できぬが、附いて來いと云ふらしい。まづ指名された少年は氣が進まぬ樣子で、斷つたのか、偸兒から怒鳴られ、小突かれてゐた。彼は不良少年の首魁と目されてゐる樣だ。數人に當つた末に、氣の弱さうな少年が無理強ひされて道連れとなり、三人で宿舎に向かひ歩き出した。

 我々の一行は、暗澹たる面持ちで歩を進める私を先頭に、その私を捉へつゝ小刀を突き出す偸兒、そして、道中も不平を漏らしては昂奮冷めやらぬ頭領に叱りつけられる子分。あいにく、宿への道中もやはり隻影だにも無く、この異樣な一黨に目を留め、あるいは救ひとなり得る者は無かつた。
 さうする内にも偸兒の苛立ちは一層募り、一刻を爭ふ焦りから、私に走る樣に命じた。不精ゆゑ運動嫌ひで、最後にまともに走つたのがいつかも思ひ出せぬ程。その爲に賊から逃げおほせることを疾うから諦めてゐたのだが、仕方無しに走りの眞似事をすると、「男らしく走れ」と一喝されてしまつた。この「Run like a man!」に思はず覺えたをかしみを反芻しながら宿へと走つた。
 宿舎に着くと、出立を見送つた守衞の姿が見えない。少年達が制服の警備員を認めるや慌てて退散する光景を腦裡に描きつゝ歩いて來たが、大いに目論見が外れてしまひ、さればとて他所に當ても無く、昂る偸兒を前に何の方便も浮かばず、このまゝ建物に入り誰かに遭遇するのに賭ける他なかつた。

 電子鍵で扉を開け、棟内に踏み入つた。誰も見えず、密かな生活の氣配があるばかり。賊を從へて階段を昇るも人影は無く、閑かな廊下を通つて部屋に入り、戸を閉めると、緊張に息を凝らしてゐた偸兒達の勝利の陶醉が手に取る樣だつた。憎惡すべき「奴等」の、想像も及ばぬ生活の内幕、それら總てが今や思ひ通りとなり、その愚かな主人も我の魚肉となる。
 抑へ切れぬ心の紛擾を擧動に表しながらも、偸兒は小刀を構へて私を見張りつゝ、掠奪を命じた。子分は見慣れぬ調度器物に取り巻かれ呆然たる有樣だつたが、命ぜられるまゝに室内を物色し、収奪を開始した。爲す術の無い私は、文明が野蠻に侵蝕され、穢される樣を傷ましく眺めてゐた。
 掠奪係を拜命した子分は、部屋にあつた私の背嚢に、目に觸れる物を手當り次第に詰め込んでゐたが、器具の大小が價値の高低の尺度となる爲に際立って見えたらしいパン焼き器に誘はれて臺所へ行き、雜多な器具の中から料理包丁を探し當てた。貧相な折り疊み刀から新しい包丁へと凶器を持ち替へる事となり、いよいよ事態が切迫するのを感じた。偸兒は、この業物の切れ味を見てやらうかと云はんばかりに包丁を振り回し、こゝまで徒手空拳のまゝ澁々附き從つて來た子分も、得物を持つて自信が湧いた樣子だつた。
 掠奪が一段落すると、偸兒は金の在處を問うた。金庫からありたけの現金を取り出して見せたが、全て彼等には見た事の無い外國通貨で、幾らになるのか想像もできない。「何だこれは。金を出せ」と、見當が外れてしまひ憤懣遣る方無い賊徒は眼を血走らせて私に迫るが、「これで全部だ」と應へる外になく、何と挨拶しても火に油を注ぐばかりで、この樣子ではいつ箍が外れてもをかしくないと思ひ、宙に搖曳する包丁の切先から眼を放さぬ樣にしてゐた。
 「眞物の」金がまだどこかに隱してあると思つたのか、ますます責め立てる偸兒を前に詮方無く窮してゐたところ、遽かに廊下が騒がしくなり、鈍く忙しい跫音に續いて、戸を激しく連打する響き。複數人で銘々に何かを叫んでゐる。偸兒は驚愕の餘り、しばらく固まつたまゝ放心してゐたが、意を決した樣子で寢室の窗を指し示し、「こゝから出る。妙な眞似をしたら殺す」。
 これを聞いてやうやく安堵できた。賊は盗品をできるだけ多く持ち出せる樣に整理したが、執着したパン焼き器は殘念ながら背嚢に納まらず、置いて行くことゝなつた。戰利品の準備が整ふと、窗を開ける樣に命じたので、喜んで意に随つた。まづは子分が三階の部屋の高さから地上へと飛び降りるのを見送り、續いて偸兒が、最後の瞬間まで包丁で突く身振りをしながら、しかし觀念して窗下に消えて行くのを見届けた。駐車場となつてゐる階下の混凝土地面に強かに體を打ち付けてゐたが、その際、奪はれて頸に掛けられてゐた寫眞機も共に地面に衝突するのが見えた。

 廊下に現れた救ひの主は警察官と守衛だつた。思ひ返すと、時宜を得る事、映畫「驛馬車」にて喇叭と共に馳せ來たる騎兵隊に等しかつた。賊が窗から逃げた事を知らせ、共に階下に降りた。
 構内は高い電氣柵を廻らされてをり、宿舎棟へ通ずる扉は施錠されてゐるので、賊は却つて囚はれとなつてゐた。警官等が捕獲に向かふと、私は正面口から表に出て、集まつた物見の一員としてこの珍しい捕物を外から見物した。壞れた寫眞機を頸から下げ、盗品で滿杯の背嚢を負うたまゝ出口を索めて奔走する樣は旣に戲畫と化し、檻の中の無益な足掻きは哀れを誘ふ。
 駐車場の奥へと匿れたので、また棟内に戻り守衛と話してゐると、二人が趨り來て硝子戸を力任せに敲いたが、旣にこちら側では、獸性に對して何と應ずる用意も無く、ただ默して見守つてゐた。再度奥へと鼠竄したところ、警官が後を追ふのが見えたので、いよいよ山場と思ひ、暫時置いてから警備員と共に駐車場へ出た。

 硝子扉を開けると、不快な臭ひが立ち罩めてゐる。催涙彈を使つた樣だ。奥へと進むと、數人の警官に取り巻かれた偸兒が獨りで包丁を振るつて頑張つてゐる。子分は旣に捕縛されたらしい。警棒を持つた大男達が、追ひ詰めた獲物の最後の抵抗に動じることなく、徐々に包圍を狹めると、堪らなくなつた偸兒は眼前の捕吏を目掛けて死にもの狂ひで打つて出た。警棒の一撃が賊の動きを止めると、すかさず詰め寄つた警官の亂打により少年は忽ちの内に頽れ、地に倒れ伏した。
 すると、その樣子を觀てゐた守衞が走り寄り、蹴りを喰はせた。持ち場を離れて賊の侵入を許した後ろめたさを霽らしたのだらう。偸兒はなほも抵抗したが、捕吏に強かに打ちのめされてやゝ阻喪し、悔しさの餘り地に伏しながら「殺してくれ」と啼泣してゐた。さうして、衆人の環視の中を警察車輛へと引き立てられる道すがらには、滿面に怒色を表し、誰彼構はずに「殺してやる」と絶叫した。

 一段落して宿の者に話を聞くと、偸兒は商業施設に續く丘を栖とする不良少年の一人で、盗みで得た金で購ふ麻藥に毒され、昂奮狀態となつてをり、駐車場の大立回りでは鐵柵の電流や棘を物ともせずに傳つて逃走を試みたと云ふ。確かに、地面には處處に血痕が殘されてをり、返つてきた紙幣も血で穢されてゐた。
 顧ると、社會の暗い周縁のまゝ果てるのが命であるとしても、不用意に寫眞機などを持つて觀光客然として縄張りを侵したことで、彼を投獄の憂き目に遭はせたことを不憫に思ふ。彼は、闖入者に對して、人間世界の猛獸としての役割を果たしたばかりとも云へる。
 それにしても、文明の中で惰性の日々を送る私にとつて、彼の裸の生の勁悍たる脈動は、怪しく鈍く光る樣な不思議な印象を殘した。

偸兒により破壞された寫眞機(東獨ツァイス・イコン製テナックス)
最後に撮影した寫眞。この後に偸兒に遭遇する。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?