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(翻訳)バーンゼン『世界法則としての悲劇的なもの』(4):第一章「悲劇的なもの」第三節

第一章 悲劇的なもの

第三節 日常生活の悲劇(Tragedy of common life)に関する下位の心理学のために

 法の違反が新たな違反によってしか償われない無数の場合や、真の誠実さが、見せかけの欺瞞によって最も満たされる場合(すなわち、他人を最も邪に欺こうとしていると疑われる時には最も実直であり、逆に、他人に対して子供染みた無邪気さに至るまで実直であるように見える時は、大抵は沈黙しているという場合である)というものは、ここで悲劇的なもののための性格的、倫理的な前提条件の糸がほどき難く縺れ合っていることを示している。多くの場合、愛こそが、我々がやがては自己保存に配慮すべきことを犠牲として要求するのであり、忠実さこそが、同一の心において忠実さに反するものである。我々はクリムヒルト(訳者注:『ニーベルンゲンの歌』)を高く賛嘆する。なぜなら、彼女は愛する復讐と、復讐する愛の責任を果たすために献身するからである。そして、彼女が新たな婚姻において、極めて忠実に守られた第一の婚姻による子供達の飢えをしのぐため、見せかけの背信において自分自身(das eigene Selbst)を捧げ、最も内なる本質の深奥の反感を克服する時に、フン族の女王である君主に我々が払うのを惜しまないのと同じ尊敬を、哀れな庶民の寡婦に対しては払わずに石を振りかざすべきだろうか? 誰がここで生意気にも忠実と不忠実との間にあえてはっきりと線を引くだろうか?
 人生が、二律背反という厳しい現実において日々提供するものが何かを苦心して考え出す必要はない。それは、ある配慮によって防ごうとしたものを、その配慮が結局命じているという状況である。解け難く絡み合った義務の茂みに空地を作るために、深い藪の中を通り抜けている者の背後では、熱帯の原生林における道路工事者の鋤仕事と同様に、拓かれたばかりの道が、ゆっくりと前進している間に容易にふさがってしまう。そして、ほぐし難いものが再び縮れ合わさることが早いほど、樵夫(訳者注:Axtschläger ここでは斧を振るって木を伐り、道を拓く者)にとってより暗く、救いが無く、出口が無くなっており、それが、予定された道の半ばに達したちょうどその時のことであればなおさらである。
 「状況によって」、すなわち、倫理的神学の運命論が、その目的に必要であるだけ生起させるところの人倫的衝突を起こす人生の状態によって「最も内的な本質の否定にまで、自己を超えて引きさらわれる」という公式は、他人に由来するものであり、ここで問題となっている関係に自ずから適合する公式として、この関係に組み入れるために実在的弁証法によって発明されたものではない(※)。
(※)『文芸的娯楽のための雑誌』1869年第6号所収、ルドルフ・フォン・ゴットシャルク(訳者注:Rudolf von Gottschalk(1823-1909))の、フィッシャー(訳者注:Johann Georg Fischer(1816-1897))の悲劇における把捉によるメキシコ皇帝マクシミリアン論。

 満たされない義務の呪縛の下にあるよりも委縮させることを想像することはできない。そのように分裂した意識の前には、最も気高い努力も弛緩して崩壊してしまう。「やりたいことをやれば良いが、より高い諸力から委ねられ、「遺贈」されたところの人生の課題に適うことはできない」と言わざるを得ないという真に慰めのない結果が、極めて冷静な思慮から出来する者、不可能を引き受けたという確信の重圧の下にある者には、崇高な義務感情の鍛練的作用がその反対へと変化する。なぜなら、到達不可能なものの要請の強さによって、手が届くものへの立ち入りが拒まれ、より単純で直線的な生き方に恵まれる者には常に開かれる道が閉ざされるからである。
 「機会」(Gelegenheit)が訪れることがなく、探しても見出すことができない場合、「機会が盗人を作る」という怠惰な言い訳に対して、「機会がなければ偉大な人物もない」という、少なくとも半ばは正当な補足が対置されることを正義が要求する。なぜなら、泣き言をいう道化師や悲喜劇のための雑色の道化衣装の他には作りようがないほどに切り刻まれ、継ぎ合わされた色とりどりの布地を生活着のために手渡された者が、無益に縫い目を合わせる気力と意欲をどこから得ればよいのだろうか? そして、偉大な世界監督(Weltenregisseur)は、時折は至って真面目に道化を登場させ、同時に、それに相応しい「作品」を折々上演させるためでなければ、彼の衣装部屋の在庫に何のためにそのような衣装を保有しているのか? 喜劇役者のカスパーがペピータに口づけすることができた時、「俺も盲目なんだ!」と囁くような声を上げたように、鈴付き帽子を被って汗をかきながら、愉快に、苦しい跳躍をせざるを得ない者が、醜い仮面に隙間を作り、仮面に弱められることなく怒りを観客に向かって(ad spectatores)(そして、書物には「独りで」(für sich)と記載される)発散してもそれを悪く思う者はいないだろう。 生活の樽(Lebenstonnen)(訳者注:樽の中のディオゲネスが念頭にあるか)に「署名」(Signiren)をするのに、いつまでも黒と白が入った二つの壺しか持たないへぼ絵描きよ、それでも仕事を続けるか、それとも、それでは十分ではなく、また、剪毛において駄目にした羊毛や、脆くなった安生地を織工の機織り現場に持ち込んだ者が、丈夫な布地を要求できないことに気付いたために、敏感な用心深さをもって、静かな恐怖を感じつつ退くのか?
 最良の意欲も、そのような極端な人生の状態によって、最も苦悩に満ちた感情の犠牲となる場合には無力となる。それは、当為(Sollen)と能力(Können)が、そこにおいて互いに入り混じり、共にあることがないという感情であり、そのような状況において無傷であれという願いはささやかなものではない。
 旋風によって反対方向から暴風が吹きあうように、矛盾する義務は、交差する威力の群集によって心を顛倒させ、その帆を引き裂き、その帆柱と帆桁を折ってしまう。最も簡単なのは、禁欲的な無意志の完全な平静において、舵が回るに任せ、全てを成り行き任せにすることであり、静寂主義はそのように安楽である。しかし、義務はより厳格な掟によって「行動せよ!」と要求する。そして、考量し、熟慮するための瞬時の間に、遅滞の罪の期限がすでに来ている。そこで決断に至るのは容易ではなく、天の霊感を受けた者にとっても、進むべき方向が予示されていない。そのため、「最良の知識と良心、誠実な熟慮に従え」という、素晴らしく平明で単純に見える規準は十分ではない。なぜなら、熟慮を得られても、それが五月雨が花萼に落ちるように我々の胸に静かに争いなく滴るのではないからである。そのように、相互に矛盾して、離れあう(分散する(divergiren))ものである人生の関係の間で解決されるべき課題に容易に立ち向かう者はいない。「より高い手」によって、乞われずともそこに放り込まれるのであり、単純な気まぐれにとっては、そのような実践的問題に相応しいと見なされることは光栄に余るだろう。羅針盤の正しいポイントを誤った者は、そこで方向を示す権利がなく、権利があるとすれば同じ試練をより良く通過した者だろう。暴風の轟きにおいて航海し、岩礁が入り乱れる中を進むために、航海士が磁針の極を信頼せざるを得ない時には、ただ通過でき、転覆しなかったということをもって満足し、引き裂かれた艫綱や失われた錨の責任を厳しく追及してはならない。周りを取り巻く岩への幾度かの衝突は、最も確実な腕前と冷静な頭脳をもってしても避けられず、策具と制服を清潔に保つこともできない。
 しかし、この戦いが内部に留まり、どこにおいても外的な事実という現象へと表出することができないとしても、その戦いは他の何よりも疲労させ、脱力させるものであり、熱に関するティンダル(訳者注:John Tyndall(1820-1893))の講演(※)において、空虚に対する摩擦という逆説を読んだ時、それが、この種の「消耗」(Aufreibung)へと注意を促していることを感じたものであるが、それは、無意識の自然が倫理的領域において形而上学的に同種の対を提供せざるを得なかったか、あるいはあらゆる意志の本性が同質であることから、そうすることを欲したかのようである。なぜなら、相互に対立する動機の、あらゆる(倫理的観点からは無関心のものを含む)衝突の受容において、同様の心理的な力の消費を認めるからである(※※)。
(※)ヴィトマン及びヘルムホルツによる訳書、初版43頁。
(※※)あらゆる自己対話はそのような自己の二重化に基づくのであり、演劇的独白の美学的正当性は、最終的にはそれによって表示された自然の真理の度合いによって測られる。あらゆる思考が対話的(dialektisch)ではないため、あらゆる独り言や単なる思考がすでに自己対話であるとは言われない一方で、内なる対話に表現を与えずに、劇中の人物の最も秘された思想を観客に伝達するという作者の快適さに貢献する独白は、自然に反しているという非難を免れることができない。

 吟味されるものの評価に際して、これら全てのことによって最大の寛大さが要求されるとしても、観客が常に、半面においてのみ共鳴する良心をもって臨んでいることへの想起も一層要求されている。考量にあたっては、片方の天秤皿にそれ自体において重い理由があるということではなく、他方の皿にあるものが「より多く引き」、より重量を増すかということが決定的となるという自然な反省が、性急に判断する本性には忘れられがちであって、それら本性は、自分が与する立場にあるもののみを注視しており、衝突の他の半面にはまったく気づいていない。
 悲劇的衝突の演劇的・詩的な形態に対しては、党派性によって濁った良心の囁きを完全に拒むことは容易にはできず、歴史的現象に対して、人生闘争の歩哨線における我々自身の状況が、歴然とした関係としてではないにせよ、認識可能な類似関係にある場合はなおさらである。具体的で、仮構されたものではないあらゆる場合においては、意志の性向と分かちがたい関心が備わるものである。そして、ルターのカタリナとの婚姻について、全ての先入見を排して判断することを新教徒に求めることは、不可能を要求することになるだろう。例えば、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒ならば、必要であれば不測時の裁判長としての中国の道徳家との協働において、完全な証拠書類に基づき、両者の誠実な客観性を前提とした上で、そのような出来事がルター派とカトリックのいずれの歴史家によってより正当に評価され、叙述されうるかを決する仲裁裁判において、先入見を排した判断をすることができるだろう。前者にとって改革者ルターは「締め付けられた良心の解放者」であり、後者にとっては「破戒僧」である。カエサルが民衆派からの離反者として、共和制という虚ろな形式を終焉させたことは、ナポレオン(訳者注:3世)やモムゼンといった敬慕的な伝記作者のみならず、「高い」政治の本能的あるいは反省的なあらゆる崇拝者にとって正当化される。ペリクレス的な植民地の蹂躙を実際主義的に体系づけたトゥキュディデスが、理論的統一へと志向するドイツ南部よりも、実践的に冷静でマキャベリ主義的な気風がある北部においてより多く読まれていることも同様の動機から説明できる。なぜなら、志を同じくする理論は、その肉と血が古代ギリシャのクラミスに蔵されていることを誤認しないからである。
 内的な法廷において、動機の諸派閥によるそのような審理が行われている様子は、他人の目から逃れているだけではなく、心的な生の水面下で行われる人倫的生活の機能に対する長い訓練による自己観察にとってしか解明されない。
 そのような二重化した奮闘に関する通常の分析に従うなら、諍いの当事者として、精神と心情、思想と感情が認識される。両者の間で勝利が揺らいでいる時は、優柔不断であると言われ、過敏な心情と、習慣的あるいは瞬間的心情、理性と情熱が対立している時には波がとりわけ激しく上下する。我々の最も深慮に富む心の理解者であるイェッセン氏(訳者注:Peter Jessen(1793-1875))も同様の説を唱えている。しかし、決定的に善または悪である者は、不決断について関知しないものであると、経験豊富である同氏が追記する時、この精神病学の大家に対する個人的尊敬は、そのような主張によって生じる懸念について沈黙を強いるのに十分ではない。最も決断的な者は、不決断が最も少ない(am wenigsten ist der Entschiedenste)ということは確かに類語反復であり、異議を挟む余地はなかろうが、ここにおいては同じ名の陰に両義性が隠されていると考える。決定的な悪漢については、そのような疑念的な考慮は生じない。良心をまったく持たない者は、無遠慮な行為の、ひとえに冷静な計算的思考によって予定された直線的軌道において、良心の異議により止められることはなく、彼にとっては賢明さと合目的性の、単純かつ見通し易い増減があるばかりである。しかし、最も良心を持つ者においては事情が異なる。最善を得ようと努める者は、善いとより善い(gut und besser)とを、より不安に駆られて比べることになる。その際、一たび決断した意志の力は最も強く、高貴な努力の強度は最も温かく、遂行における粘り強さは最も持続的で、行動に駆り立てる自己決定は最も活発な弾力(自発性)を持ち、最も激しく活性化しうる(反応性)。しかし、通常であれば本来的な本質に不決断が含まれなくとも、そのような性質の者にとって、場合によっては「決心する」ことが言い表し難く困難であることがある。彼は疑う余地のない不正への誘惑を極めて敏速な決心によって退け、嘘や悪への誘いに対しては弱さによる躊躇を知らず、疑う余地のない義務を実行に移す際には、彼が躊躇うのを見ることはない。しかし、事実によって「人生の径が分かれる」閾へと置かれる瞬間には、彼の内部へと向けられた視線の前で、彼は風向旗に等しく、あちこちへと吹き流され、あるいは最終的には、羅牌の第三の方角から吹き来る新鮮な風が、まったく予想しえないものとなり、闘争する両方の暴風の不安定な均衡による産物としての静寂の蒸鬱から彼を引き離し、二重の義務の枷から重苦しい感覚を解き放つことになるだろう。
 そして、そのような体験をする者は、暗い人生の像の陰気な反射が、卑しく不快な気分として広がるのを甘受しなければならない。なぜなら共鳴板をばらばらの音が叩く時、情緒と振る舞いとが調和的となり得ないからである。しかし、我々がその間に置かれているところの物に内在する矛盾が、我々の心を通り過ぎていくのに対して為す術があるだろうか? そして、極めて粗雑に引かれた弦が弾け切れる時、極めて繊細な性質の心は耳を塞ぐであろうが、運命の女神の粗野な手に極めて乱暴につかまれた不協和音に耐えられない楽器の善良さを疑い、咎めてはならない。
 そして、常に賢明な者は、理性と良心が調和しなければならないという俗物の知恵を拠り所としてはならない。反対に、時として舵を握る良心が生命意志の本能と結びつけられており、両者が同じ目標点を指していても、理性と、賢明と蓋然性の計算が帆に横風を吹き付けることがある。そして、決定的な成功によって介入するという予期せぬものの権利は、両方の可能性の間で選択することが常に容易でなく、人生行路の転換点において常に重い諦念を甘受しなければならなかった者によって最も容易に承認される。二つの義務が相互の均衡を保つ限り、相互に縺れ合って醸成されるものがついには澄明に成らなければならない。その時は、相互に結びついた元素を解放し、阻害されない独立性をもって新たな結合を成さしめるガルヴァーニの放電のように作用するならば、稲妻でさえもが歓迎される。(続く)

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