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(翻訳)バーンゼン『世界法則としての悲劇的なもの』(5):第一章「悲劇的なもの」 第三節(続き)

第一章 悲劇的なもの

第三節 日常生活の悲劇(Tragedy of common life)に関する下位の心理学のために(続き)

 衝突する義務の混乱は、計算しがたい関係の組み合わせを径の上に容易に押し出す。その径は、希望に関して欺き・欺かれて待ち暮らすことが、過去における最も重苦しい時間が指示した目的の、より快適な道による実現を信じさせた間は、通行できないと思われた径である。しかし、少なくとも半ばにおいて歩の上げ下げを強いられているような歩みにとって、喜ばしい希望は遠く離れている。そして、絶望的な偶発的決断を為し、遂行しようとする者は、実行に適した時が来たと、最もささいな誘因においてもその決断に立脚する者に極めて容易に信じ込ませることにおいて、そうした決断が危険で、人倫的配慮を危機に陥れるものであるという警告を受ける必要がある。しかし、極端なことにまで開かれた展望が、極めて容易に誘い得るような「火遊び」をするべきではない。なぜなら、いつでもすでにその状況への跳躍(訳者注: 原文は「auf dem Sprung」。まさにしようとすることの意)を開始しており、片足を深淵に投げ出しているからである。
 この危険がそうした衝突において自然的に必然に生起することに関して、ハムレットというこの論に特徴的な像において、壁掛け越しに「カサカサ動く鼠」ポローニアスを刺す際の成り行きが証拠を与えている。
 この思い煩いに飢えた英雄(彼のオフィーリアへの愛を喜ぶ者は乏しい)の心の最奥の根柢を眺める者は、あらゆる希望と苦悩が消失する静寂への憧憬以外の何物をも認めない。なぜなら、最も誇らしく自由を確信しようとする時においては、決断を阻害する鎖を断ち切るに際し、矛盾から矛盾を産むという生の弁証法の法則に従って、半ば不随意的なものが生起するということに最も確実に気がついているからである。直線的意欲と直線的人生行路を有する者は、我々の歩みには、彼らにおける単純な義務とは違い、3倍もの義務が伴っており、時折の不決断を避け難くしていることを知らない。彼らにとっては我々の躊躇が謎であったのだが、事が生起した後に完全に回復された勇気も同様に謎である。ハムレットは卑怯なごろつきと同じではないため、すでに完結したことに対し落ち着いた心をもって臨み、躊躇と熟慮に振り回されるのは、いまだ進行中であり、二種の解決法が供されているように見える場合においてのみである。そこで、澄明に至るまで貫徹された他者的な良心が、同時に静止と慰めとして現れる時、それは心の重荷を取り除く救いとなり得る。その良心は、他律の見かけをもって自律を取り戻すのであるが、その自律は、回転しつつ、自身の自然な重心を持つ代わりに、外的な衝撃によって他の人工的な重心を与えられており、独楽がそれを回す鞭によって重心を与えられているのと同様である。
 そうして、我々は生の弁証法の根本問題に再び直面している。それは、意志と動機という二つの要素の産物としての行為への問いである。それらの要素はある意味において、因果関係を規定する自由と因果関係に規定される必然性として対置し得るものであり、それらが上下する糸のように縺れ合うことで、あらゆる生の紋様が「時というざわめく織機」において色とりどりの刺繡として共に作用するのである。
 為すことと為されることの相互作用の最も具象的な像を得ようとする者は、植物研究者と同様に、自分の個々の段階を探求せよ。それらの段階は、総体的な出来事として、内容と関連に富んだ比喩を用いて我々が決断の「成熟」と名付けるものである。熟した果実の味と色には風、天候、日照や降雨がそれぞれ与っている。しかし、成熟したというのは木だけが与る事柄である。ただし、果実がどのように熟したか、花が咲いた後すぐに死して落下したか、虫が喰ったか、酸味と甘味が自然に、徐々に落ちて色があせたか、焦がすような乾燥のために皮が皺になり、壊敗をもたらす湿気が腐敗過程を早めたかといった全てのことは、内的な生得の本質ではなく、外的なものに依存している。
 何かを「半分の心」(halbes Herz)で行う者は、その行為の他の半面を、自分の心ではなく自分自身でもない力に明け渡している。そして、全的な(ganz)な人間、全的な男である者も、時折は分断された意欲によって行動せざるを得ないことは、あらゆる悲劇的な横流の本来的な源泉であるところの、自由と必然性に由来する出来事の二重の本性を証明している。あるいは、平凡となった語(訳者注:半分の心)をその完全な恐るべき意義において理解しやすく、すなわち感じ取りやすくするため、その語を具体的な根源へと遡らせ、「半分にされた心」(halbirtes Herz)というべきだろうか?
 天秤皿が深く下がっている場合においても、静止していれば、より軽い重量が揺れ動いている時の半分の圧力も感じられない。このことが、全てに無関心となり、あらゆる崇高性を持たない無法者の感情を起こさせる。それは卑俗的な心気症と似ているが、弱小者の尊厳の無さによるものとは異なり、同種のものではない。
 そして、窮迫した胸の潮波において、相互に渦巻く水流の上部と下部のどちらが支配的であるかが最終的に決せられる際に、深く陥った瓦礫が渦によって水面へと投げ返される様を安全な港から見ていた者は、波の完全な顛倒が起こったのだと信じやすい。そして、常に自分を調べることで、自己と同様の不変化性を適時に確認していない者にとっては、自分にも同じことが起こったのだと思われる場合があるが、誤りに導く現象が数多くあるため、そのように確認をすることは容易なことではない。
 印象はしだいに薄れるものであり、恐怖や偶発的な不調は「時とともに」意識から消え、同情は事実の前に萎縮する。すでに量り難い悲嘆と不幸があるため、満たされた升にとって多寡は問題とならない。「意欲のある者には害は与えられない」(volenti non fit injuria)という糊塗的な考えの下では良心は沈黙してしまう。他人の意見、名誉と不名誉への反抗は、バトラー(訳者注:Samuel Buttler(1835-1902)か)が行った、「長い名誉を無駄に断念してしまった」という省察、あるいは世間が、高名として集められた資本を将来への担保として受け取ってくれるだろうという希望(世間はそのようなことをしないものだが)によって研ぎ澄まされる。展望は空しくなり、少なくとも他人の幸福のために克己したという美しい信念は破壊され、あらゆる断念は無益と証されるため、「ただ原則によって」それを堅持しようとするのは虚しい気まぐれである。長く抑えつけられた欲求は最後に、圧倒的な仕方をもって感じられ、「妥当」し、散発的あるいは部分的な充足による恒常的刺激の下に、強化された要求とともに意識に浮かびあがる。深奥の根柢においては意志は死んでいなかったのであり、単に眠り込み、せいぜい去勢されただけであって、ある者がつい先ほどは熱心に阻止しようとしたものを、突如として自発的につかんだ時に、完全に人が変わってしまったと衆人が驚いて凝視するのに何の不思議があるだろうか? そして、実際には動機の彼に対する位置づけが変化したのであり、彼の動機に対する位置づけではない。最も内部における意志の核の自己同一性は揺さぶられていないが、「関係」が現実に客観的に別のものとなっているか、我々が少なくとも「他の目で見る」ことを学んだかのいずれかである。そして、意志の流れの流体静力学的な比における、物質的な「流入」(訳者注:原文はEinflüsse。流れ(fließen)入る(ein)ことから「影響」を意味する)に依存した変化によって、内的に重心が移動している。それによって、梃子の柄は同じ支点(Hypomochlion)において作用できず、決断は、不十分な観察資料によった均衡の計算とは違ったものとなる。そして、ユーモアが自在である者は、特別の信頼を要求する権利があると思い込んでおり、極めて恩知らずに愚弄されたと嘆いている多くの者の呆気に取られた表情において愉快な材料に事欠かない。そうして嘆くことは、ある程度の確実性をもって自身が予見した以上のことを予め暴露することが可能であるとすることから来るようである。
 最大の正直さの要求が前提される時、上記のような場合においては圧迫的な感情を抱くこととなる。それは、全ての動機を自他に明らかにする能力は有限の人間には与えられていないという感情である。部分的な供述によっては完全な理解への助力となることはできないということを我々は知っている。考量の末の決定が、自己自身と、これまで長く保持した原則と、苦労して耐え抜いた過去を打ちのめすように見える場合には、言葉は震える唇とつかえた発条から離れがたい。しかし一方で、誤解から逃れ難く思われるために時宜によらず沈黙することは、誤った解釈の可能性を限りなく増加させるため、最も危険な逃げ道である。
 推測において獲得される洞察の、粗野な誤解から極めて繊細な誤りまでの等級において、単に好奇心のある者と、誠実な関わりにおいて驚かされた者が誤謬に従うのを見ることがある。ある者は忠実な友人が、特に暑い日であったのだが、つい先ほどは渋くて味わえないと思った果実の枝を予期せず折ったことが理解できず、不信をもって友人の頭を揺すっている。しかし、果汁の不可視の循環を描出することができないため、この「事件」(Casus)を世間に吹聴しないのが得策であるかもしれない。さもなくば、極めて賢明な知恵者が、そのような植物の専門家を自負して、吹聴した者を良知に従って「時期尚早であるが、予期された失敗」(immaturus lapsus neque tamen improvisus)と名付けざるを得ないと考えるかもしれない。
 あらゆる方面からの観察によって、意志の暗い根本的本質が許す限りにおいて意欲が完全な自己意識にまで清められる時、人間の尺度によって考えられ得る偶発性が精神の法廷の裁きへと隊伍を組んで行進する時、有限的な近視眼が見渡せる限りにおいて自己への不意打ちが回避される時、不完全な状態が転換点へと導かれ、外的な関係に関する決定において動揺しているものが待ち望まれ、ついにある事実において、最も秘せられた意欲と希望の自己探求が補完され、試行の連続において関係者が調査され、事前の熟慮による保障のための一連の試験が完了し、無為の観想によるあらゆる感傷的な反抗が弱められ、あらゆる感覚が厳しい現実の圧迫によって鈍麻され、不快を詰めた樽の注ぎ口からの沸騰する霧雨の下で、痙攣する易傷性の繊細な末端神経が煮られる時、こう言うことができる:決断は熟した、なぜなら、必然性(奇妙な自己欺瞞によってそれが真の自由の本来的本質と見なされがちである)の洞察によって次の一歩の不可避性が認識・承認され、不可欠と思われた諦念の自己充足が観念的で脆い心から奪われ、拒否しがたくなった甘受の必要性が受け入れられ、躊躇する利己主義と隣り合って勇気ある義務感情の声が浸透しているからである。意志は、真実の内容の自己実現という一つの道に固執することをやめており、さらに、新たな落胆において幻想的希望に終止符が打たれている。そこで、新たに掘られた源泉から湧き水が力強く噴出し、力の限り閉ざされた弁が、あらゆる神と悪魔に反抗する「ままよ、終わらせる必要があるのだ!」という決断(訳者注:原文はEnt-schliessung、閉鎖(Schliessung)を解く(ent)ことから決断を意味する)へと開放されている。
 そうして、自然な成り行きで、古い枷を破って「自由な手」を得て、何の選択もせずに卑近の顧慮が命ずるところ、「雨の中から雨樋の下へ」(訳者注:泣き面に蜂)と歩みだすのを自己に強いることが起こり得る。そうして、意志の自発性にとって新たな道が掃き清められているが、実践的には、吹雪がアルプスの小屋の入口を塞ぐように、取り巻く動機が新たに開かれた道を通って舞い込むことで感受性を覆ってしまう結果となる。意志と動機の一致において、どちらかの重みが優位となるのに応じて、自由か必然性かを受け入れることとなるが、その際、一方のみが活動することはなく、両者の間の比が異なったものとなるのみであることを知っている。
 意志の内的な対立、根本本質的な分裂と、そこから表面に浮かびあがる振動現象においては、彷徨して一定の明瞭さに至らない認識による単なる手探り以上のものがあることが実在的弁証法にとって結果として現れている。意志に対して、知性によって様々な動機が提示され、そのいずれに熱心に向かうのかが単に試験されるのではなく、自己同一的な個別理念の特徴(「契機」?)(訳者注:特徴はMerkmale、契機はMomente)を形作る意志の内容においてこの自己分裂は、受精した卵が自己分割するのと同様に(あるいは全く同じく)前成(präformirt)されている。
 世界苦を歌う詩人に対して嘲笑されたのは、「世界の中心、大世界と小世界を貫く」かの亀裂である。そして、誠実な単純さが自己の世界の深奥を知ることなく、「それについて、自分とも意見が一致しない」と呟くことが、その亀裂の雄弁で単純な表現である。


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